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「志鬼! 待って、待ってよ! 降りて、今すぐ私のところに帰って来て!」
あゆらは志鬼の台詞の意味を理解したくなかった。
それなのに、わかってしまう。
いつから決めていたのだろう。自分のために、離れることを。
あゆらが夢のように幸せな時間に耽っている間、志鬼は笑顔の裏で、厳しい現実と向き合っていた。
電車が出る。
あゆらは追いかける。
どれだけ必死に走っても、届かない。
『アキは大家さんが引き取ってくれたから心配せんでもええわ』
「お願い、話を聞いて! 何も言わずに離れるなんてひどいわ! 私、ついて来いって言われればついて行くし、待てって言われたらずっと待つから……ねえ……なんとか言ってよ、志鬼!!」
あゆらなら、きっとこうして懸命に引き止めてくれると思っていた志鬼は、だからこそ何も言わなかった。
あゆらといたら決心が鈍る。
甘えるのは、血の滲む努力をした後の褒美として、いつか叶えばと切に願った。
『五年経っても、あゆらがまだ俺のこと……』
「何!? 電車の音でよく聞こえない!」
志鬼は、待っていてほしい、という言葉が喉まで出かかり、涙と一緒に飲み込んだ。
あゆらを縛ることになると思ったからだ。
『もう、一人で暗い道歩いたらあかんで』
「志鬼! 待って! 待——」
通信が途絶え、あゆらは丘の先端に立ち止まった。
肩で息をし、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、遠ざかる電車を眺めた。
「ずっと、一緒だって言ったじゃない……」
ススキの穂が銀から金へ、彩りを変える頃、あゆらの青春のすべてはあまりに鮮烈な記憶を残し去って行った。
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