19人が本棚に入れています
本棚に追加
祖母は南澤を居間に通すと、これから見聞きすることについて語り始めた。
「これから行く先は、あの世とこの世の境目の空間です。南澤さんは生きている人間。人間を食べて暮らすあやかしたちも存在する世界。わたくしたちの側から離れずについて行くことを約束できますか?」
「それで、佐由美が目覚めるなら」
南澤の口調が涙声になっている。皺だらけのズボンに涙を流して、泣き笑いながら話す妻との思い出。
「年の差婚で、30代の佐由美と40代半ばの僕とは釣り合わないと思っていました。けど、世代差なんて関係なくて一緒にいて落ち着けるんです。時代なんて感じさせない素敵な人なんです」
愛おしそうに話聞かせる姿に嘘は感じられない。嘘をついた人の色は、灰色で、濃い灰色が嘘をついた人間の周囲を漂っている。助けてあげたい、良き縁で結ばれた二人の未来を守りたい。
「そうかい、大切にしているんだね。その縁は離さないでしっかりと握りしめておくんだよ」
祖母が泣き笑っている南澤の両肩を叩く。二人の空気感が和やかな空気に変わったことを感じながら、居間を出て軋む廊下を歩き階段を駆け足で歩いて行く。ぼくは自室へ戻り、服やズボンを脱いでいく。
※※※
階段を上がる足音が近づいてくる。祖母が先を歩き後ろから南澤がおいかけている。突然姿を消したぼくのことを聞いている声が廊下に響いている。
「お孫さんはどちらへ?」
ドンドン
襖を叩き襖越しに祖母の声が問いかけている。立ち止まった南澤の困惑の声も聞こえる。
「準備はいいかい?豊が説明しておくれ、わたしも準備をせねばならんからね」
スッと横に襖を動かして祖母と頷き合うぼく。南澤はぼくの正装姿に視線を上下させている。ぼくの部屋に招き入れ襖を閉める。祖母が階段を降りていく音を聞きながら、折り畳み机の脚を立てて、真っ白な紙を一枚置く。
「誓約書です。下記に南澤さんの氏名と、血判を記してください」
小さな針を紙の脇に置く、南澤が誓約書に視線を通し筆で名前を一筆する。血判を押す理由をぼくに聞いてから、正装のことも質問をしている。
「血判なんて、生々しいな・・・・おばあさんから聞いていたけど、本当に別世界に行くんだね。それは、正装着なのかい?」
白地の着物には緑色の麻の葉模様。足袋の靴下を履いている。下駄を部屋の隅に置いている。一見してみれば和装にしたのかと思われるだろう。南澤が視線を向けていた先は頭。
着物には不釣り合いの緑色のニット帽を被っているから、不自然さが強調されている。
「麻の葉には魔除けの意味があります。ニット帽を被る理由は、髪を食べられないようにするためです。南澤さんの血判は匂いを感づかれないようにするため。筆で書いた氏名の上に人差し指の血をなぞってくれますか?」
言われるがまま右手の人差し指にほんのり出ている血を、氏名の上になぞって上書きしていく。ぼくらが、誓約書と世界について話している間に、祖母の支度は終わり、廊下を出ると置くの部屋で待機していた。祖母の恰好は巫女姿に数珠を持ち、お札をぼくに手渡す。
「どうして・・・」
祖母から手渡されたお札には先ほど南澤が書いたものが転写されている。ぼくから南澤さんに差し出される。
「このお札を額に貼ってください」
横書きされた南澤卓也と書かれたお札を額に貼るのには、理由があるが、南澤の背後にいる佐由美の魂が揺らいでいる。説明をする時間が残されていないことを伝えている。
質問しようとしていた南澤の言葉を遮り、緑色の紐を手渡す。太く編み込まれた紐を南澤の右手首とぼくの手首に巻いていく。
「けっして、離れず。お札を剥がしてはなりませんぞ!!」
仕事部屋となっている奥の部屋は、あの世とこの世を繋ぐ扉になっている。祖母が先頭を歩き、ドアノブを回し扉を開けると、どんよりした空気が流れ込む。曇天から、雨がしとしとと落ちていき次第に雨粒が強くなる。ぼくらの間を南澤が不安げな足取りで歩いて行く。
ぎぃぃ・・・・・
扉がゆっくりと閉められた。
最初のコメントを投稿しよう!