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「いたたたたたたっ!千切れる千切れるっ!宰様ッ!」
「うるせえ!んなこと見りゃわかんだよ!」
ジタバタと足を動かす陽太に若干切れそうになりながらも、全力で鍵盤蓋を抉じ開けようとするが力を加えれば加えるほど閉まろうと陽太の腰に掛かる重力が増えているような気がしてならない。
「つーかーさーさーまー!!」
「うるせえ、少し黙ってろ!」
俺一人の力では無理だ。そう理解した俺はピアノから手を離した。
だからといって鍵盤蓋のことも陽太のことも諦めたわけではない。
加えられる重力。どんな仕組みでこのピアノが動いているのかわからないが、なんらかの仕組みが働いている以上突破口はそこにあるはずだ。
「……っくそ、なんで俺がこんなこと……」
それでも、陽太の喧しい断末魔も骨が折れるような音も聞きたくない。
蓋は俺が触っていない状態でも下がり続けるようで、フレームの中からくぐもった陽太の泣き声を聞きながら俺は改めてピアノを観察することにした。
普通のピアノよりも大きなそれには、見覚えがあった。だけど、思い出せない。
一周して見ていると、ふと、鍵盤の蓋が持ち上がっていることに気付いた。
歩み寄ってみると、一枚の楽譜がそこには置かれていて。それを手に取った瞬間、書かれていた楽曲名に反応するかのようにどくんと心臓が跳ね上がる。
同時に、記憶の奥底に仕舞い込んでいた記憶が蘇ってくるのが自分でもわかった。
昔、といっても中学の頃だろうか。小さい頃にピアノを習っていたからという一方的な理由で合唱コンクールの伴奏をやらされた。といっても目立つのもクラスのために一生懸命になるのも嫌だった俺は結局ボイコットし、他の誰かにやらせた記憶がある。
……もう覚えてないが。
一応練習はしたが、思うように指が動けなくてムカついて止めたんだっけな。
思い出すだけで不快になってくる思い出だ、当時の俺も忘れたくて記憶の底に仕舞い込んだのだろう。
それなのに。と、俺は手元の楽譜に目を向ける。
譜面いっぱいに踊る音符。見てるだけで吐きそうだった。
それと同時に、この音楽室への既視感の理由もわかった。
ここは、俺が通っていた中学だ。その音楽室。なぜ忘れていたのかも、甚だ理由はつく。音楽室にはろくな思い出がない。
けれどもしここが母校だとしたらおかしい。卒業して何年か経って、母校は廃校になったはずだ。
あの忌々しい事件のせいで。
「宰様っ?宰様っ?!何をしてるんですか?」
不意に、悲痛な陽太の声に現実に引き戻される。
そうだ、今は思い出に浸っている場合ではない。
改めて楽譜に目を走らせた俺は、最後の譜面の右下にあるものを見つけた。
「……陽太、そのピアノ、止める方法が見付かったかもしれねえ」
赤い色鉛筆で書かれた『目指せ!合唱コン優勝!』というその文字は明らかに真新しいもので。
既にその役目を果てたこの音楽室で今尚合唱コンクールに向けて励むやつなんていない。つまり、何者かが故意に置いたわけだ。ここで目を覚まし、ピアノに挟まることを前提にした何者かが。何のために?
勿論俺が陽太をピアノに潜らせることを見越し、俺が合唱コンクールをボイコットしたことを知っているやつだ。そして、恐らくこれがピアノを止める方法になる。
こんな陰険な仕組みを考えたやつには是非顔面の形がなくなるまで捻り潰してぶっ殺してやりたいくらいだ。
ピアノに触ったのは何年ぶりだろうか。
あの日以来、楽器に触れることしかなかったから恐らく三年以上のブランクはあるはずだ。
相変わらず挟まってる陽太を一瞥し、殺気立った自分の気持ちを和らげるために数回息を吐いた。そして、置いてある椅子を引き、腰を掛ける。
他は埃かぶっているくせに、鍵盤だけは綺麗に磨かれているのが余計腹立たしくて。
譜面をセットした俺は目を瞑る。案外、音符も読めるものだと思った。不幸中の幸いか、当時の合唱曲に選ばれたそれは然程難解なものではない。
だけど、当時の俺が弾けなかったそれを俺が最後まで引くことができるのか。
もう一度ざっと音符の羅列に目を通してみるが、なんでだろうか、なんとなく、腑に落ちない。頭の中に入ってこないのだ。
冷や汗が滲むのを拭い、唇を噛み締めた。
立ち止まってる暇はない。いち早く帰るんだ。
そう、鍵盤に両手を乗せた俺は慣らしに簡単に音階を確認していこうとした、その時だった。
ドを強く押したとき、鍵盤の下、何かが詰まったような感触がした。
「っ、宰様、待って、待って下さい!」
喚く陽太。まさか、鍵盤を触れただけでも鍵盤蓋が反応するのだろうか。
そうなれば、下手な練習は出来ないことになるが。それよりも、鍵盤の詰まりが気になった。
ゴミでも詰まってんじゃないだろうなと、その鍵盤の一つを外したとき。
「っ、!!」
ぽろりと取れたそれの内側には、鋭利なカミソリが嵌め込まれていて。
その鋭く尖った先端部。赤く濡れているのを見て、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「どうしてこんなものが…ッ」
「い、痛いよぉ…宰様ぁ…っ!」
「っ!」
そんな陽太の声に、咄嗟に鍵盤の下を覗き込んだ俺はそこに広がる内部の状況に目を疑った。
丁度、鍵盤のその下、何かを握りように固められた陽太の手の甲が見えた。
そこは既に赤く染まっていて、どうやら今何か詰まっていると感じていたものは陽太の手だったようだ。
ということは、だ。これを演奏するには鍵盤を引かなければならないわけで、挟まった陽太は動けない。つまり、このまま演奏するということは。
そこまで考えて、吐き気が込み上げてくる。まさか、と思い他の鍵盤も外してみれば、案の定だ。どの鍵盤にも鋭いカミソリが固定してあった。
「なんなんだよ、これ……」
「宰様、俺、死んじゃうんですかっ?」
「うるせえ、今考えてんだよ!黙ってろ!」
「ひぐっ」
まだ喋る余裕はあるようだが、先程に比べ声が弱々しくなってるのも事実で。
鍵盤を全て外したところで音を奏でるものがなければ意味がない。どうすればいいんだ。そう、思考を働かせたとき。
不意に、鍵盤の下、固められた陽太の拳に目が向いた。
この手の中には、ここの鍵が入っている。この鍵を使えば、俺だけでもこの音楽室から出られるのではないだろうか。
鍵盤蓋を止めるにはこのカミソリピアノで1曲引き終えなければならない。
一発で成功したとしても、その下にある陽太の手が刻まれることには違いない。
そんな痛い思いをするんなら、このまま内臓ごと潰されて死んだほうがましなのではないか。
なんて、一瞬想像してしまった俺は首を横に振り、邪な思考を振り払った。
別にこいつがどこで野垂れ死のうが構わない。だけど、俺がいる今、そんな後世に響くような気色の悪い死に方をしてもらっては困る。
鍵盤の下に手を入れ、鍵盤からフレーム床の高さを調べる。
そして刃の長さ。どこに手を置けば一番被害が少ないかを頭の中で計算する。
「っ、ぁ、ぐ……ッ」
何かが軋むような音が聞こえ、くぐもった陽太の声が、聞こえてきた。
だから待てっつってんだろだろうが、と口の中で吐き捨てる。
全てを頭の中で組み立てたとき、俺は陽太の手を触れる。
「いっ……」
「おい陽太、生きてるか」
「つ、かさ、さま……」
「今から俺はお前の手を切り刻む」
返事はなかったが、恐らく、仰天しているに違いない。
返答の有無はどうでもよかった。
俺たちに残されてる選択肢などたかが知れてるとわかってるからだ、俺も、陽太も。
だから、それなら。
「――少しでも形を残してえなら俺の言う通りにしろ」
まず、計算した結果、できる限り手を平らに広げて底につけたところで最低一センチはカミソリが入ることがわかった。
つまり、そこから陽太が痛みに我慢できずき動いてしまったことを想定する限り骨ぎりぎりつくかつかないか切断するか否か。どちらにせよ無傷は無理だ。
そこから、楽譜からしてあまり使わないであろう鍵盤の傍まで動かすが……。
「宰様、俺、指、なくなっちゃうんですか……」
「お前が我慢すれば済む」
完奏が目的である今、下手に動いて曲を止められたら失敗になるわけだ。
なるべく早く終わらせたい。
「っ、宰様……」
「ちゃんとおとなしく出来たらなにか一つ好きなもの、褒美にやるよ」
「……ッ!」
背筋を伸ばし、呼吸を整える。ここまで不快な発表会があったのだろうか。
俺は、鍵盤の上に両手を翳した。
一息でも吐いたらペースが狂ってしまいそうで。曲を弾き終えるまでまともに呼吸をすることが出来なかった。
そう終えるまで。
時折聞こえてくる陽太の声を無心に聞き流し続け、譜面全て弾き終わった時、俺に襲いかかってきたのは達成感よりも疲労感。そして、それすらもすぐにすっ飛ばされることになる。
「ッ、ぅ、ぎ……ッ!」
「なんでだよ……!なんで止まってないんだよ!」
鍵盤蓋は速度を緩めるどころか先程よりも加わる力が強まってるみたいで。
ただでさえ細い陽太の腰が、更に圧迫されているのを見て、目の前が真っ暗になる。
なにが可笑しい。ちゃんと弾いたはずなのに!弾き終えたのに!
腹立ってピアノを思いっきり蹴りつけたとき、ピーピーピー!と耳障りな警告音が響き渡る。
「っが、は……ッ」
籠もった呻き声に混ざって、なにか水のようなものが吐き出す音が聞こえ、俺は慌てて譜面を手に取った。
俺はなにかを見落としていたのか?なにかを。
考え込む。時間がなくても、それしか俺には出来なかった。今度はじっくりとその譜面の音符を目で伝っていく。そして、そこで俺は初めこの譜面に目を通したときの違和感の正体に気付いた。
何度やっても出来なかった合唱曲。それなのに、今度はどこでも躓かなかった。やっつけ本番にも等しい中で。
それ自体がそもそも間違っていたのだ。
思い出したくもない記憶を掘り返す。頭の中で音階を辿り、一つずつの音を確かめていく。
そして終盤、最大の盛り上がりであり最難関であるそこで俺の目は止まった。
ぐしゃぐしゃになった楽譜の一列。以前何度しても指が縺れてしまい奏でることが出来なかったそのメロディが、簡略化されていた。
同じ曲でも、複雑な音階が絡み合う上級者向けの楽譜と一つのパートを奏でるためだけに簡略化された楽譜と何種類か存在する場合がある。そして、今俺の手の中にあるそれも後者の楽譜だった。
この悪趣味な仕掛けを考えた奴が弾けなかった曲を弾き終え、喜ぶ俺を見て一人ほくそ笑んでると考えただけで腸が煮え返りそうになった。
「ッ、舐めやがって……」
手の中、ぐしゃぐしゃに握り潰した楽譜を譜面台に叩きつける。再度椅子に腰を下ろした俺は、睨み付けるように空の譜面台を見た。
数年前、指が腱鞘炎になるくらい練習したあの楽譜を目の前に描く。
ピアノ教室で当たり前のように皆が淡々と演奏する中、一人だけ上手くいかず、比べられるのが嫌でやる前からそっぽ向いていたあの頃の俺とは違う。
やってやる。弾いてやる。いくら卓上の空論を並べたところで弾けなかったらただの人殺しと変わらない。
やってやる。
口の中で呟き、パンッと乾いた頬を叩いた。
陽太の声は聞こえなかった。それでも、俺は再び鍵盤へと手を伸ばした。
ひたすらヤケクソだった。頭の中、何度も繰り返した指の動きを思い出しながら辿り、それの繰り返し。
鍵盤部分が赤く滑り、血の匂いが濃厚になっても俺はピアノを弾き続けた。
何度も失敗したが、加速する鍵盤蓋以上にスピードを上げ鍵盤を叩く。
最初、鍵盤に突っかかっていた手応えはなくなっていた。
だからだろう。大分スムーズに行くことができたがそれが何を意味するかなんて考えたくて。
「早く終われ早く終われ早く終われ……ッ!」
絶え間なく鍵盤を叩く。
聞こえてくるピアノ音が雨と混ざってただの雑音にしか聞こえなかったが、美しいメロディなんて嗜む余裕すらない。
そして、そこには存在しない最後の譜面。何度もしくじって、さっきも、何度も詰まった。
どうせまた失敗するのではないか。そう、心の奥底、諦めの境地に達している自分の嘆きを無視し、ひたすら無心に俺は鍵盤を叩いた。
気が付いたら、俺の意志とは関係なく指が動いていて。それが動きを止めた時。俺は、静かに鍵盤を見詰めた。
頭の中に流れる音符はもう現れない。
――終わった。
そう、俺は完奏したのだ。今度は、間違いなく、あの頃の譜面で。
喜ぶよりも先に、椅子から飛び降りた俺は鍵盤蓋を掴む。
今度は、ゆっくりと蓋は持ち上がった。
「おい、陽太……ッ!」
蓋を持ち上げ、陽太の制服を引っ張り、ピアノの中から引き摺り出す。
無駄に図体だけはでかい陽太は流石に重い。
受け止めきることかできず、そのままべちんと床の上に落とした俺はそのまま陽太の体を揺する。
「陽太ッ!おいっ!終わったぞ!陽太ッ!」
ただでさえ生白い肌は生きてる人間のそれを越え、死人のように青白い。
間に合ったはずだ。ざわつく胸を押さえ込み、「陽太」ともう一度揺すったとき。
「……つか……」
「陽太?」
「つかさ、さヴァッ」
言い終わる前に、ごぽりと音を立て陽太の口からなんか色々溢れ出した。
「ちょっ、おい、吐くなよ!」
慌てて陽太から手を離したが、僅かに目を開いた陽太は見るからに虫の息で。
「陽太、おい、いつまで寝てんだよ」
「……すが、つかささまです」
水の音が混ざった掠れた声。
嘔吐物垂れ流して動かす唇で辛うじてやつがなにを言おうとしているのかがわかったが、それでも。だからといって。
「……当たり前だろ、俺を誰だと思ってんだよ」
やり切れない怒りを押し殺し、そう呟けば僅かに陽太の口元が緩んだような気がした。
そして、震える陽太の手が、俺の肩に触れる。真っ赤に染まった拳。あるはずの指が数本なくなっているその拳を開けば、中には赤く濡れた鍵が入っていて。
目を見開いた俺に、陽太は小さく唇を動かす。
『すみません』
今更何を謝るというのか。
力がなくなり、重くなる陽太の体。手遅れだったというのか。俺がこんなに頑張ってやったというのに。
そう、頭の中で理解した瞬間、込み上げてくるのは怒りだった。
「ふざけんなよ……ッ」
俺にゲロぶっかけてやりたくもないピアノをやらせて結局陽太は助かりませんでしたなんて、そんなの、許さねえ。
俺の努力が全てが無駄になるなんて、許さねえ。
受け取った鍵を握り締め、俺は単身で扉に向かった。
何が何でも陽太も連れて帰る。じゃないと、結局幼馴染は助かりませんでしたなんて俺のプライドが許さない。
濡れた鍵を鍵穴に差し込み、捻る。簡単に扉は開いた。
あとはもう、ここを出てどこか、そうだ、救急車を呼んで、そうしたら。
頭の中で計画を立てながら、音楽室を飛び出したときだ。
「うおわっ!……っぶねえな…」
扉の向こう側、現れた人影に真正面からぶつかりそうになる。
……人?
「あれ、お前……右代か?」
高い位置から聞こえてくるその場違いな明るい声に名前を呼ばれ、顔を上げる。
そこには、俺たちのものとは違う、学ラン姿の男が立っていた。
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