妖精の森

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 その森に入ってからもうずいぶんと時間がたつが、若者はいまだそこから出る方途を見つけられないでいた。家から持ち出してきた食料も水も残りわずかで、若者の頭には不安な考えがよぎった。 「このままでは本当にここで死んでしまうぞ」  若者はこの森の近くの村の民で、この森に入ることは、村の決まりで固く禁じられていた。その昔、この森に入った者が何人もいたが、誰一人として戻って来る者はいなかったからだ。しかし、この若者は人一倍名誉心が強く、体力もあったので、初めての生還者は自分に違いないと考えた。そこで、村人に見つからぬよう、こっそり夜中に村を抜け出し、森に入ったのだったが、1時間も散策していると、まっすぐに歩いてきたはずなのにもう帰り道がわからなくなった。それから一日中、あちらこちら歩き回ったが、出口を見つけることはできず、とうとう道の真ん中に座り込んでしまった。もう日も沈むので、今日はここで休むことにして、もうほとんどない食料を平らげ、一口でなくなる水も飲んで、絶望の中眠った。  翌朝、朝日が射してきてまぶしかったが、若者は起きる気がしなかった。どうせ歩いても同じなんだ、という諦めの気持ちが脳内を支配していて、現実を直視したくなかったからだ。しかし、太陽は容赦なく若者の肌を焦がす。あまりの暑さに若者は起き上がった。 「わかったよ、歩けばいいんだろ」  吐き捨てるようにそう言うと、荷物を背負い、歩き出した。しばらく進むと、二手に分かれた道が現れた。どちらに行くべきか悩んでいると、左側の林の中から10歳くらいの、可愛らしい少年が出てきた。若者は驚いて尋ねた。 「君はだれ?こんなところで何してるの」  少年は答えて、 「僕は妖精。この森に住んでるんだ。お兄さんこそ何してるの」  若者は答えて、 「ちょっと道に迷っちゃってねえ。君、どちらに行けば出口かわかるかい」  少年はニッと笑って、 「それなら、左が出口に続く道だよ」 「そうか、ありがとう」  若者は礼を言って、言われた通り左を進んだ。少年は右側の林の中へと消えた。  しばらく進むと、また前と同じような分かれ道が現れた。またか、と若者はやや失望し、どちらに行くべきか悩んでいると、今度は右側の林の中から、20代か30代くらいの、ハンサムな青年が出てきた。若者は尋ねた。 「あなたは誰ですか?こんなところで何してるんです」  青年は答えて、 「いや、久しぶりですねえ。え?俺ですか?俺はこの森に住む妖精ですよ。あんたこそ何してるの」 若者は答えて、 「私にはそんなハンサムな知り合いはいませんよ。知り合いの男どもは皆醜男ばかりですから。人違いでしょう。私はちょっと道に迷ってしまって、どちらに行けば出口に到着するのか、わからないでいるのです」  青年はニコッと笑って、 「それなら、右が出口に続く道だよ」 「そうですか、どうもありがとう」  若者は礼を言って、また言われた通りに右を進んだ。青年は左側の林の中へと消えた。  しばらく進むと、またしてもさっきと同じような分かれ道が現れた。またか、もういい加減にしてくれ、と若者はほとほとウンザリして、道に座り込むと、左側の林の中から、もう60歳は優に超えているだろうと思われる老爺が出てきた。少年は嫌々ながら、尋ねた。 「あなたは誰ですか?こんなところで何をしているのですか」  老爺は答えて、 「おー、何十年ぶりじゃろうか。覚えておるぞ。元気じゃったか?え?わしか?わしは、ここに長らく暮らしておる森の妖精じゃよ。ところで、おぬしこそ、こんなところで何をしておるのじゃ」  若者は答えて 「私が知っている老人は、村の人だけです。村の人はあなたみたいな小汚い格好はしていませんよ。まるで乞食のようです。そんなことより、私はちょっと道に迷ってしまったので、どちらの道が出口に続くのか、教えてもらえますか」  老爺は不満な顔をして、 「なんじゃ、機嫌が悪いのう。それが人にものを頼む時の態度か?まあ、わしとおぬしの仲じゃ、特別に教えてやろう。左が、出口に続く道じゃ」 「そうですか、どうも」  若者は、もう正直礼も言いたくはなかったが、礼儀として一応述べて、言われた通り左を進んだ。老爺はその場から瞬間的に消えた。  若者はその道を進みながら、この森にはいったい何匹妖精がいるんだ、馬鹿にしてやがる、同じような訳のわからないことばかり言いやがって、本当に道は合ってるんだろうな、今度また分かれ道だったら、覚悟しやがれ……、などと内心イライラがおさまらなかった。ぶつぶつ悪態をついているうちに、急にバッと景色が開けた。青空の下、緑豊かな田んぼが広がり、茅葺きの家々が目についた。見慣れた風景に若者は安心感やら懐かしさやらで涙を流した。 「よかった、本当によかった」  若者は走って村に戻った。しかし、すぐに様子がおかしいことに気がついた。普段の活気がないのだ。いつもなら、こんな天気の良い日は、洗濯やら買い物やらでもっとにぎわっているものだが、話し声さえ聞こえない。どうしたのだろう、と不安になってとりあえず家に帰ってみたが、誰もいない。まさにもぬけの殻といった感じだった。一人、田んぼに出ている年増がいたので、見かけない顔ではあったが、話しかけた。 「すみません、佐久間ですけど、うちの家の者を知りませんか」 すると年増はゆっくりとこちらを向いて、 「佐久間さん?あー、昔この村にいた人だね。あの人たちもかわいそうな人たちだよ。一人息子が急にいなくなってしまってねえ」 「それで、どうしたんです」  若者は気が気ではなかった。 「それで、村中が大騒ぎになって、例の森に入ったんじゃないかってことになってねえ。ほら、一度入ったら二度と戻れないっていうアレ。その息子は血気盛んな子だったらしいから、武勇伝でも作りたかったんだろうねえ。若気の至りで気持ちはわからなくもないけどさ」 「それで、その子の両親は、今どこに……」  年増は青空を見上げた。 「もうこの世にはいないよ。その子がいなくなってすぐ、夫婦二人とも心労でぶっ倒れちまったようでね、長くは生きられず……。まあ、大事な一人息子を亡くしたんじゃねえ」  若者は息をのんで、恐る恐る尋ねた。 「……すみません、それ、何年前のことですか」  年増は若者に目をやったが、またすぐ天に視線を戻した。 「何年って……、もう50年にもなるかねえ。私はここに嫁いできた身だから、直接見聞きしたことではないんだけど」  若者は立ち尽くすほかなかった。年増はふと思い出したように、 「ところで、あんたは佐久間さんの親戚の人?」  若者に再び目を向けようとしたが、もうそこには誰もいなかった。
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