雨崎少年の悪夢とその要因について。

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 母親の退院日、俺はとうとう迎えに行かなかった。  どんな顔をしたらいいのかわからなかった。怖かった。会いたくなかった。  男が病院に行ってる間、俺は、家を出た。  とにかくこの家にいたくなかったのだ。  勿論本当に家出することはできない。残された母親のことを考えると、そんな真似できなかった。結局、俺は子供だったのだ。一人では何も出来ない。逃げ出すこともできなければ、打開する勇気もない。  それでも、一人になれる場所にいきたかった。  気が付けば、俺は学校へと来ていた。  今日は休校日だ。一般生徒は出入りできないようにその校門は閉められている。  わかっていたのに、ここに足が向いてしまったのは、学校が唯一俺にとっての逃げ場だったからだ。校舎へと忍び込む勇気はない。  ただ、日常が戻ってきたようなは気がして、俺は、俺がなんなのか、思い出せたような気がした。  そのときだった。 「……雨崎?」  聞こえてきたその声に、息が止まる。脈が加速し、汗が溢れ出した。恐る恐る声のする方を向けば、そこには、私服姿の秦野がいた。  今までふわふわとしていた足元が、地についたような、そんな錯覚を覚えた。  会いたくなかった。けれど、同時に、以前と変わらない秦野を見た瞬間、今まで我慢していたものがどっと溢れ出した。  視界が歪み、ぼろぼろと涙が溢れた。俺は、声を上げて泣いた。  なんで泣いてるのかわからないまま泣き出す俺に、秦野は驚いたような顔をした。  けれど、それも束の間のことだ。秦野は嗚咽する俺を抱き締め、そして背中を撫でる。 「雨崎、話がある」  「大丈夫か」とか「落ち着け」とか。そんな慰めの言葉はなかった。けれど、日頃教壇の上で雄弁に語る秦野からは想像つかないほど、冷たい、平坦な声だった。  俺は、抵抗する気力も残っていなかった。秦野に連れられるように、俺は秦野の車に乗り込んだ。  秦野は、学校に忘れ物を取りに来ただけだと言った。  住宅街から離れた公園の傍に車を停め、俺は、秦野からもらった缶ジュースを見詰めていた。 「……雨崎、お前は放っといてくれって言ったな。けど、今、そのことを後悔している。分かるか?」  聞いたことのない声。  語り掛けてくる秦野の横顔に笑顔はない。端正だから余計冷たく見えるのだろうか、その横顔は日頃の秦野と同一人物とは思えなかった。そんな秦野の目がこちらを向く、視線がぶつかり、ぎくりとした。 「お前、この一週間何があった?」  単刀直入だった。  おそらく、秦野はもう気付いているはずだ。その態度から、わかった。けれど、その先を聞くのが怖くて、俺は、何も答えられなかった。  取り出した煙草を咥え、火を着ける。「答えにくいか」と、息を吐く。  俺は、秦野が煙草吸うことを知らなかった。車内に充満する煙に、目眩を覚える。 「……お前のお母さんのことは、気の毒だと思ったし、大変だろうと思った。……けど、一つだけ気になることがあったんだ。お前のお母さんの恋人、あいつと、この一週間一緒にいたのか」 「そ、れは」 「あの男に、何かされてるんじゃないのか」  それは、核心に触れた質問だった。秦野の流し目に、冷や汗が滲む。  秦野は、気付いてるのだ。その上で、俺をこの車に乗せて、詰問しているのだ。そう理解した瞬間、逃げ出したくなった。  シートベルトを外し、ドアを開けようとするが、開かない。ロックがかかっていた。 「雨崎」と、伸びてきた手に腕を掴まえられる。あの男と同じ、大きな掌。長く太い指に、体が緊張した。喉が震え、恐怖に身が竦む。 「……違う」 「……なに?」 「違うっ、俺は、そんなこと、違う……っ、俺……」  違う、違うんだ。俺は変じゃない。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。他人に、それも、男相手に屈服させられているということを知られたくなかった。  それも、俺のことを気にしてくれていた秦野に、そんな風に思われるのは、何よりも嫌だった。 「雨崎……」 「俺は、変じゃない……俺は、普通で、俺は……」 「雨崎!」  ぐっ、と強い力で揺すられた瞬間、白に塗りつぶされていた頭の中は瞬時に赤く染まった。 「ごめんなさいッ、打たないで!」  脊髄反射だった。  咄嗟に頭をかばったとき、血の気が引いた。目の前にいるのは、あの憎い男ではない。……秦野だ。  怯える姿なんて、見られたくなかった。血の気が引く。恐る恐る秦野を向いた、やつの目の色が変わるのを見た。 「……ぶつわけないだろ」  咥えていた煙草の火を揉み消し、灰皿に捨てる。そして、憐れむような目をした秦野に抱き締められた。  最初、恐ろしいほど心臓が跳ね上がった。あの男ではないその匂いに、体が反応する。必死に逃れようとするが、強張った全身は石のように固まったまま動かない。呼吸が浅くなる。それでも、秦野がそれ以上のことをしてこないとわかると、次第にあれほどうるさかった心臓の音は遠ざかる。「雨崎」そう、憐憫の色を滲ませ、秦野は俺の背中を優しく撫でる。 「……なんで、一人で抱え込むんだ」
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