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食事を終え、アツがテキパキと片付けを始める。
椅子に座りっぱなしなのも落ち着かなくて、なにか手伝おうかと申し出たがアツには「余計仕事が増えそうだからいい」と断られる。
それどころか、部屋で寝てろと半ば強制的に部屋へと帰されることになった。
あれほど俺のことを恨んでるはずのアツが優しいと、嫌な気持ちはしないがちょっと引っかかった。
それも変な話だろうが。
正直体がまだ本調子ではないのは事実だ。言葉に甘えて部屋でゆっくりすることにした。
もしかしたらまたアツが部屋に来るかもしれないと思って気を張っていたが、いらぬ心配だったようだ。結局その日、俺はゆっくりと休むことになる。
椎名のことを考えるのが癪だったし、携帯を修理に出すのも面倒で、今誰と会ってもきっとまともな反応できないだろうし、今日は引きこもろう。そう、ベッドに横になれば、いつの間にかに眠っていた。
どれくらいの時間経ったのだろうか。下のリビングで物音が聞こえてくる。深夜十二時。大分休んだお陰か、体の痛みは大分ましになっていた。
丁度腹が減っていた俺は、眠気眼のまま階段を降りる。
リビングを除けば、夜勤明けの母親が明日朝のご飯の用意をしていたようだ。
「アンタ今起きたの?」
「んー……今起きた」
「よく寝る子ね。それ以上育ってどうするのよ」
「まーいいじゃん育った方がモテるし。……アツは?」
「篤人ならまたどっか行ってるみたいよ。本当、飽きないわねー」
「……」
飽きる飽きないとかの問題ではないと思うが、母親曰く珍しいことではないらしいので敢えて俺は放置しておくことにした。
それにしても、あの夜見た光景はなんだったんだろうか。俺の元カノと歩くアツを思い出しては胸の奥が妙に引っかかった。
……本人に聞くか?けど、今更俺が聞くのも変な気がする。
もういいや、知らん、寝よ。
そう思い、俺は、カップ麺だけ食って部屋へと戻った。
翌朝。
昨夜からアツは部屋に戻ってきていないようだ。
俺は用意されていた朝食を温めて食べ、テレビをぼんやりと眺めていた。流石に二日目引きこもるには暇すぎる。今日は携帯ショップへと行って代替え機を用意してもらうか。そんなことを考えながら、身支度を整える。
ふと着替えようと着ていたシャツを脱いだ時、鏡に映った自分の体を見て凍りついた。
椎名の手の跡がびっしりと残った全身、それは一日目に比べて色濃く広がっており、正直見てられないもので。
「……ッ」
過る。いろいろ余計なことまで思い出し、具合が悪くなる。……忘れよう、として忘れたら苦労はしない。
どっと滲む脂汗を拭い、俺は顔を見てみぬふりして服を着た。……やっぱり出掛けるのやめようかな、と思い始めたときだった。玄関の方で、扉が開く音がした。
母親は仕事に行ったばかりだ。だとしたら。と、思い玄関を覗こうとしたときだ、ドッと何かが落ちるような音がした。何事かと思い覗けば、そこには、玄関前、うつ伏せに倒れるアツがいた。
「……アツ……?」
驚いて、慌てて駆け寄る。「どうした」と、声をかければ、アツはゆっくりと目を開いた。「なんでもねえ」と、枯れた声で吐き捨てるアツ。顔は傷だらけで、服には所々赤黒い染みで汚れていた。どう見てもなんでもない、とは思えない。
「……誰にやられた?」
声が、震える。腹の底から嫌なものが込み上げてくる。
整った顔も、切れ、殴られたのだろう、腫れているのが痛々しくて見ていられない。
アツはこちらを睨み、そして、
「転んだだけ」
そんな言い訳が通用すると思われてることが癪だった。
「アツ……ッ」
「んだよ、今更兄貴面か?……お前に関係ねえだろ」
昨日、アツは優しかった。俺のためにご飯とか作ってくれたし、薬だって買ってくれた。だから、また昔みたいにとは言わないが、普通に戻れるのかなと思ったが、せっかく戻った溝は以前よりも大きく広がったような気がしてならなかった。
「……そうかよ」
こうなったアツに何言っても仕方ない。俺は、立ち上がり、アツから離れた。アツは、玄関で座り込んだまま動かない。リビングへと戻った俺は、濡らしたタオルと救急箱掴んで玄関のアツのところへと向かった。バタバタと戻ってくる俺を見て、アツはぎょっとする。
「……おい」
「昨日、お前だって俺がいいっつっても手当、勝手にしただろ」
「だから、お返し」そう言えば、アツは何か良いかけて、そして呆れたように舌打ちをした。勝手にしろ、ということなのだろう。そう解釈し、俺は、アツを座らせ直す。殴られてから時間が経っているようだ。鬱血した跡は広がり、鼻血も固まっている。俺は、アツの顔の汚れをタオルで拭った。
その間、アツは大人しかった。借りてきた猫みたいだ。思いながら、俺は、髪を撫でる。綺麗な髪も乱れてる。所々血がこびりついて固まってるようだった。
返り血、なのだろうか。アツの出血は鼻血ぐらいしか見当たらないのに対して、全身至るところに血の跡がついている。気にはなったが、聞くことはできなかった。
「……痛むか?」
「全然」
「嘘吐け。……痛いだろ」
「……アンタに比べたらこんくらい平気だ」
「……俺は、違うだろ……」
そうじゃなくて、と、言いかけたとき、アツの手が頬に触れる。汚れた指先。昔の柔らかい指とは違う、硬質な皮膚の感触。頬の輪郭を確かめるように撫でられ、体が強張る。
「……ッ、アツ……動くなよ……」
「早くしろよ。……手が止まってる」
わざとおちょくってるのだろう。
怪我が痛むくせに、こういうときだけ笑うアツにちょっとかちんとする。俺が、どんだけ、心配してるかも知らないで。
俺は、ぐっと言葉を堪えて、アツの顔の汚れをそっと拭う。やはり痛むのだろう。傷口付近をなぞる度にアツの顔が歪む。
顔の怪我に消毒やガーゼなどは使わないほうがいいと聞いたことがある。汚れだけ拭い、手を離した時俺は不意にアツの腹部に目を向けた。暗い色の服でわかりにくかったが、その腹部は真っ赤に染まっていて思わず目を見開く。
「……アツ、お腹も怪我したのか?」
あまりにも夥しい出血量にぞっとし、慌ててアツの上から退いたときだ。
アツは「違う」といい、そして、腹部のポケットから何かを取り出す。ごとりと音を立て、床の上に放り出されたのは真っ赤に染まったタオルでぐるぐるに巻かれたそれで。
「……っ、なんだよ、それ……」
無造作に巻かれたタオルの中、出てきたのは同様赤く汚れた大振りのナイフだった。
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