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「っ、なんだよ、これ……」
それを見た瞬間、厭な想像が思考を巡る。どうして、こんなものが。アツは、面倒臭そうに舌打ちをする。
「……おい、アツ……」
「俺のじゃねえよ」
「……え」
「刺されそうになったから取り上げただけだ」
「……なんか文句あんのかよ」と、こちらを睨んでくるアツ。刺されそうになった。その言葉に、背筋に厭な汗が滲む。
「じゃ……じゃあ、この、血は」
「取り上げたときにそいつに引っかかっただけ。何勘違いしてんのか知らねえけど、俺はなんもしてねえから」
そうアツはそう言うが、俺にとっては安心できるようなものではない。
アツが誰かに刺されそうになった。傷付けられた。その事実が恐ろしかった。
「……この顔も、同じやつか?」
「……そうだよ」
「誰だよ、そいつ……」
声が震える。俺の弟に、手を出すなんて。
しかも、こんなに傷作らせて。
そっとアツの髪に触れれば、アツに手を握り締められる。
「……聞いてどうすんだよ」
「アツにこんな目に遭わせたやつ、ほっとけるかよ」
「……」
「その様子からして、知らないやつじゃないんだろ」
アツ、と、もう一度名前を呼ぼうとした時、背中に回された手に抱き寄せられる。バランスが崩れ、アツの上に乗りそうになった寸でのところで壁に手を突くが、構わずアツは俺に顔を近づけた。ばちりと睫毛がぶつかるような音がして、すぐに唇を重ねられる。柔らかい感触。錆びた鉄のような匂い。
「っ、ん、ぅ……」
キスなんか、してる場合ではないのに。身を攀じるが、構わずアツに後頭部を掴まれ、深く唇を重ねられる。誤魔化される。そう思い、咄嗟にアツの肩を掴み、引き剥がした。
「……篤人……っ!」
そう、声を上げれば、アツ……篤人はふっと破顔した。年相応の、まだ幼さの残る笑顔。それはどこか懐かしさもあって。
やっと名前を呼んでくれたな、といいたげに、痛々しく笑うのだ。
そして、篤人は俺を片腕で抱き締めた。
「……なんのために俺が殴られてやったと思ってんだよ。……アンタに余計なことさせたくないからだよ」
ぶっきらぼうな物言いは相変わらずだが、発するその声は酷く優しかった。
どういう意味だと言い掛けたとき、一つの顔が浮かぶ。俺に余計なことさせたくない、ということは、まさか。
「っ、まさか……椎名か……」
血の気が引く。俺と篤人の関係を知ったあいつが篤人に直接なにか仕掛けにいくことは考えなかったわけではない。けれど、こんなナイフ、それに、篤人の怪我。それを見て、血の気が引いた。
「……もうあいつのこと気にするのやめろ」
「けど」と、口を挟む。
こんな目に遭わされて、何もできないなんて。と思うのに。
篤人はに顎を掴まれ、強引に顔を上げさせられた。
「……いいな?」
そう口にする篤人に笑顔はない。
有無を言わせないその圧力に、俺は何も言えなかった。
何も答えない俺に、篤人は俺の肩を叩き、そして、ヨロヨロと立ち上がる。
「……風呂、入りたいから沸かして」
足を引きずるように歩いていく篤人はそれだけを言い残し、サバイバルナイフを手にしたまま2階へと上がっていった。
後日、俺は知人に会ったときに椎名が逮捕されたということを聞いた。知人は「大分酔ってたらしいしな、お前も飲み過ぎには気をつけろよ」なんて言っていたが、本当に酒だけのせいなのか俺にはもう分からない。
ネットで調べると、確かにニュースになっていた。篤人が早朝に帰ってきたあの日の深夜、男子高校生Aを暴行し、刺そうとしたところを通行人が止めに入り、現行犯逮捕。
場所からしても、椎名がよく遊びに行ってる付近なので間違いないだろう。
そしてこの男子高校生Aは言わずもがな、篤人だろう。
篤人はこの日のことをなにも言わないが、昨日の今日でただの偶然のようには思えなかった。
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