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ごく普通の家庭、ごく普通の両親、その環境で育ったにもかかわらず俺と4つ下の弟はよく似ていないと言われる。
取り敢えず考えるよりも先に行動する俺と違い、弟の篤人ーーアツはあくまで慎重で、よく言えば冷静で、悪く言えば俺の一歩後ろから着いてくるような子だった。
なのに。
「アツ、おかえり。遅かったなー。見ないうちにまたでかくなったんじゃないか?」
「……」
「あっ、おい、アツーアツってば、おーい!」
高校を卒業し、大学に上がるとともに実家を出て、地元を離れ、一人暮らしを始めて三年。
夏休みを利用して久しぶりに帰ってきたというのに、高校二年生にもなった弟は俺に目もくれずに自室へと引きこもる。
「なんだぁ?あいつ反抗期か?」
「アンタまたなんかしたんじゃないの?あの子顔に似合わず繊細だから」
「なんかも何も、全然連絡取れてなかったしなー」
「だからじゃないの?」と母親は言う。
そんなことを言われても、取りたくても取れなかったのだから仕方ない。とはいえ、俺が一方的に音信不通になったのだから仕方ないのだけど。
若気の至りというか、そろそろ弟を兄離れさせなければと思い敢えて連絡先も引越し先も告げずに家を出たのが悪かったのか、ご覧の通り弟の俺への愛情はマイナス値を突破しているようだ。
けれど、母親や父親の話を聞く限り弟は俺がいなくてもある程度一人で行動できるようになったようだ。
それを聞けただけ安心する。
久しぶりの帰省だ。今更なんだと突っぱねられようが兄弟だ、きっとまた以前のように打ち解けてくれるだろう。
せっかくお土産も持ってきたし、後で部屋に遊びに行くか。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夕刻。
一日中アツは部屋に篭ってるようだ。
俺は「篤人を呼んできてくれ」という母親の命令の元、アツの部屋を訪ねていた。
「アツ、ご飯できたってよ」
コンコンとノックする。
けれど、返事はない。
もしかして出かけているのか?いやでも、玄関にはアツの靴があったし……。
思いながら、俺はドアノブを捻り、扉を開く。
「おーい、アツー?」
「っ、勝手に入ってきてくんじゃねえよ!」
「なんだいるじゃん」
アツはベッドの上、あぐらを掻いて漫画を読んでいるようだった。それを隠すように慌てて座り直したアツは、俺を睨みつける。
「今日はビーフシチューだってよ。アツも好きだったろ?」
「……いらねーよ」
「は?そんなこと言ってると俺が全部食っちゃうからな」
「うるせぇ、勝手にしたらいいだろ!さっさと部屋から出て行けっての!」
言うなり、手短なところにあったティッシュの箱を投げてくるアツ。飛んでくるそれを慌てて受け止める。
「いてて……んなに怒んなくてもいいだろー」
「いいから早く出てけよ」
「ちょっ、おわっ、転ぶ転ぶ!」
というわけで、アツに半ば強引に部屋から追い出された俺。
昔は俺が学校まで迎えに来ないと機嫌悪くしてたのに、今となっては出て行けよ、か。
俺が必要なくなったというのだろうが、それもそれで寂しいというのが本音だ。
……けれど、ここで諦める俺ではない。
食事後。
「アツーゲームしよ!ゲーム!ほら、これ昔よくやってただろ!一緒にやろうぜー!」
ほこり被っていたゲーム機を引っ張り出し、アツの部屋へ飛び込む。
そんな俺をゴキブリかなにかのようなものを見る目で見下ろすアツは「やんねえ」と一言、ばっさりと切り捨てた。
「ええ、なんで?ずっと部屋に引き篭もってたら体鈍るぞーお兄ちゃんとリビングで遊ぼうよー」
「ほらほら、アツ好きだったろこれ」と一緒に掘り出してきたソフトをちらつかせれば、アツは鬱陶しそうに髪を掻き毟り、そして、深く溜息を吐いた。
「……お前さぁ、今更お兄ちゃんお兄ちゃんって、よく言えるな」
「え、や……だってお兄ちゃんはお兄ちゃんだろ?」
「今更兄貴ぶんの、うぜーんだよ。……お前なんか血が繋がってるだけの他人だろ」
「出て行けよ、鬱陶しいんだよ、お前」頭を殴られたような、そんなショックを受けたのは確かだ。
正直に言おう。この言葉を吐き出されたとき、たしかに俺の思考は停止していた。思考を放棄していた。
明るくて前向き、悩みがなさそうなのが取り柄と言われた俺でも、実の弟にここまで言われてヘラヘラ笑ってることは出来なかった。
というか、ショックでかすぎてそれからどうやってアツの部屋から戻ってきたのかよく覚えてないくらいだ。
確かに、ここ数年は兄らしいこともしてない。寧ろアツからしてみたら『いきなり帰ってきて今更なんだ』っていう気持ちのがでかいのだろう。
フラフラとした足取りで、俺はやり場のないゲーム機とともにリビングへと降りていた。
それからは、ゲームするわけでもなくソファーの上で布団にくるまっていた。
丸まると落ち着くのだ。
「アンタ元気だけが取り柄なのに、そんなに凹むなんて……」
そんな俺を憐れむかのように母親は口にする。
俺だって、自分がここまでダメージ受けるとは思わなかった。きっとこれがアツではない他の人間だったらそれほどダメージも受けなかったのかもしれない。
「……俺、アツに嫌われてんのかな」
「そんなわけないでしょ。だってあんなにワタルワタル煩かったんだから」
「でも、だって、俺のこと血の繋がっただけの他人って……」
「あの子がそんなこと言ったの?」
「……うん……」
「どうせまたいつもの強がりよ。本当は喜んでるのよ、アンタが久しぶりに帰ってきて。じゃないといつも外でフラフラしてろくに帰ってこないんだから」
「えっ?!」
初耳だ。さらっととんでもないことを言い出す母親に、慌てて俺は布団から飛び出し、ソファーの背もたれに乗り上げる。
キッチンで後片付けをしていた母親は、懐かしむように腕を組んだ。
「本当、高校に上がってアンタが一人暮らし勝手に始めた頃からグレちゃってねー、なのにちゃんと学校はサボってないんだから根は変わんないのよね」
「あ、あいつ夜遊びなんてしてるのか?!」
「アンタが高校の時変な友達とばっか遊んでたからそれ見て影響受けてんのよ、それまでずっと真面目だったのにね、はーあ」
「俺全然そんなこと聞いてなかったんだけど?!」
「だってアンタが聞かなかったから言わなかったのよ」
「うぐ……」
「それに、アンタが相談もなく家を出ていったときの篤人ってば、見てられなかったんだからね。あの落ち込み方、アンタと一緒に住むって言って聞かないし……」
「……」
母親の言葉とともに、蘇る記憶。
確かあの時は俺もちょっと呆けてて、自分のことしか考えていなかった。
『亘が出ていくなら俺も一緒に行く』というアツに『お前もそろそろ独り立ちしろよ』みたいなことを言った記憶がある。そのときのアツの顔が蘇り、「あーーー」と頭を掻き毟りたくなった。
もしかしてそれのせいか?てか、絶対あれだ。それまでは、アツは真面目で、優等生と呼ばれる部類だった。寄り道なんかせずに真っ直ぐ家に帰っては俺のことを待っているのだ。
そんなアツがあんな目で俺を見るなんて……。
「ちゃんと謝って仲直りしときなさいよ」
「謝るって言われても……なあ……」
それが出来たら苦労はしないんだよなー。
というか、謝るくらいならできるが、アツがそれを聞き入れてくれるかどうかだ。
8月半ば。まだ夏休みは続いてる。
それまでに遺恨を無くして元通りの兄弟に戻りたいと思うが……前途多難なようだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日。
今日は久しぶりに地元の友達と連絡取って飲むことになっている。
「今日俺の飯いいから」
「あんまり飲みすぎないのよ。あんた強くないんだから」
「分かったって、大丈夫大丈夫」
「あ、それと母さんたち今夜は遅くなるから」
「アツは?」
「朝から遊びに行ってるわよ。一応ご飯も作り置きあるし一人でも大丈夫でしょ、あの子も子供じゃないんだから」
「……まあそうかもだけど」
結局、昨日の夜からまともに話せてねーな。
まあ、いいか。と気持ちを切り替えることにした。
「それじゃ、行ってきまーす」
アツのことは気になるが、取り敢えず久しぶりの友人たちの食事を楽しみたかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『亘、なんで一人暮らしすんだよ、俺聞いてないし』
『飽きたとかじゃなくて、ほら、良い機会じゃん、一人暮らしって自由だし好きなときに起きて好きなときに好きなことできんだぜ?アツも高校卒業したら一人暮らししろよ』
『嫌だ、俺、亘と一緒がいい、俺も一緒に……』
『お前は学校あるだろ。それに、お前いたら一人暮らしの意味ねーし』
『一人暮らしの意味……?』
『これ母さんたちには言うなよ。彼女と同棲すんの、こんな壁の薄い家じゃなんもできないしな』
『か、のじょ……?』
『お前も兄離れして、可愛い彼女つくれよ、な?』
記憶の中のアツはいつも笑っていた。けれど、あの日、あの瞬間は、その笑みはなくなっていた。
俺は、それが俺のためでもアツのためだと思っていたのだ。……というのは建前で、ただ遊びたかったというのが本音だったが。
結局、引っ越して同棲して、三ヶ月経ったくらいに喧嘩して彼女は出ていった。
それからも何人か彼女は出来たが、どうしても長続きしないのだ。
ということで現在、珍しくフリーの期間が三ヶ月経とうとしていたわけだが。
「おー、亘久しぶりー!」
「わー、亘君黒髪になってるー!」
「よっ!久しぶりー、何年ぶりよ、お前ら全然変わってねーじゃん」
待ち合わせ場所にはもうよく知った顔が複数あった。
何人かは引っ越しても連絡取り合っていたが、こうして実際に飲みに行くのはホント、学生ぶりだ。
俺はアツの顔を振り払う。
今日はせっかくの飲み会だし今は楽しもう。
そう、決めたはいいが。
会場の居酒屋に入って30分、目の前には空のジョッキが三本。顔面は熱を帯び、既に視界はグラグラと揺れ始めていた。
「亘大分落ち着いたよなー。向こうでどうだったんだよ、同棲してた彼女に逃げられたってのは風の噂で聞いたけど」
「もー全然、なんか長続きしないんだよな。俺の周りは三周年記念とかやってんのにさぁ」
「そういやあの宮本も今度結婚するらしいよ」
「えっ?!まじで?!何それ聞いてねーんだけど!!」
高校のときのメンツの話題と言えば、やっぱり当時の同級生の話が主になった。
誰が結婚したやら誰が留学したやら誰がアイドルになったやら、そんなことを話してはあっという間に時計の針は進んでいて。
どんどん運ばれてくる料理を摘み、酒も摘み、順調にアルコールが回ってくる。心地よい酔いにテンポのよい会話はなによりもご馳走だ。俺は上機嫌のまま、何杯目かの生に口を喉奥へと流し込んだ。
そんなときだ。友人の一人が「そういや」と俺に向き直る。
「この前お前んところの弟とあったんだけど、大分立派に育ったよなぁ、アツ君だっけ?」
「まじ?あいつは俺に似てイケメンだしなぁ、将来有望だから今のうちにツバつけとけよ」
「変わってねーな、お前のブラコン」
「俺の妹がアツ君と同級なんだけど、やっぱすげーモテるらしいな。なんか彼女五人くらいいるって噂あるらしいし」
「へーだろうな……って、五人?!」
思わずノリツッコミみたいになってしまった。
ジョッキをテーブルに叩きつける俺に、周りのやつらはゲラゲラと笑う。
「あれ?地元1のモテ男の亘君負けてんじゃねえの?」
「いやいやいや五人て盛りすぎだろ……」
「いやまじだって、知らんけど、そう言ってたし」
「嘘だー」
「でもわかる気するわ、アツ君かっこいいしね」
いやいやいや何言ってんだよ……アツに彼女?しかも五人?確かにモテるだろうけど、あいつ、そんな女の子誑かすような器用な子じゃないだろ……確かに彼女は作れっつったけどさ……。
「生ビールおかわり!」
「おっ、急にペース上がってんな、どうした、弟に妬いてんのか?」
「うるせぇな、アツはそんなキャラじゃねーし、だってあいつずっと俺ばっかだったんだぞ?そんなウブのピュアっ子がいきなり彼女五人とか……あるわけねーじゃん!俺一筋だっての!」
「うわ、亘君出来上がってんねー」
「すみませーん、こっちも焼酎水割りでー」
なんかもやもやする。
これは食い過ぎでも胸焼けでもない、もっとふわっとしたモヤモヤだ。
でも、会っていない間確かにそこには俺の知らないアツがいるわけで……。
いやいやでもでもなんて自問自答を繰り返してはそれを紛らすように運ばれてきたジョッキを口にした。
俺はそのとき、自分が決して酒に強い人間ではないということを思い出した。
そして二時間後。
「うぉ゛ぇ゛え……」
「おい亘、二次会大丈夫かよ」
「……も゛ぉム゛リ゛……」
「だろうな……」
俺の酔いはMAXに達していた。
気持ちいい酔いはどこにいったのか、今は五臓六腑に染み渡るこのアルコールがただただ忌々しくすらあった。
店を出た歩道で蹲る俺、それを友人たちは取り囲んでは笑い合ってる。
「亘ハイペースすぎなんだよ、弱いくせに」
「変わってないなー」
好き勝手笑ってるやつら。その中で一人、俺に寄り添ってくれているやつがいた。高校のときの一番の友人だった椎名だ。
「俺、先にこいつ送っていくよ。先次の店行ってていいから」
「やだ、俺も遊びに行くぅ……」
「無理って言っただろ自分で……。ほら、立てるか?無理ならおぶるけど」
「んん……」
大丈夫、と言おうとするが舌が回らない。
そのときだった、ギャーギャーと騒いでいた周りが一瞬、空気が変わった気がした。
「あれ、君って……」
「……そいつがどーしたんですか」
周りの音が遠くなる中、聞き慣れた声が聞こえた。
懐かしくて、耳に馴染む声。けれど、俺の意識はそれ以上保つことはできなかった。吐き気以上の強烈な眠りに襲われ、俺はそのまま地面に落ちた。
それからは、よく覚えていない。広い背中が目の前にあって、歩くたびに伝わるその振動すら心地よかった。大分吐き気は収まったものの、意識は未だ覚醒しなかった。
その振動が収まったと思ったら、体を降ろされる。
アルコール漬けの筋肉はまともに機能しない。そこは玄関のようだった。そのまま床に倒れ込む俺に、椎名は頬をペチペチと叩いた。
「おい、着いたぞ、起きろよ」
「……やぁ、も、ムリ……部屋まで連れて行って……」
「……チッ」
足元、靴を脱がされてる。そのまま、がっしりとした腕に体を抱き抱えられる。まるで割れ物でも扱うような丁寧な抱き方は擽ったかったが、密着した胸元から伝わる相手の心音は心地よかった。
「……俺の部屋、階段上がってすぐのとこだから……」
「……」
「ん……落とすなよー……もっとぎゅっと……優しくしろ……」
この時の俺は頭が回ってなかった。当たり前だ。酒何杯飲んだと思ってるんだ。電気もつけないまま、椎名は俺をお姫様だっこしたまま階段を上がる。俺は、振り落とされないようにその首に手を回した。
そのとき、なんとなく髪が伸びたような気がしたが、俺は深く取り留めなかった。
扉が開く音がしてすぐ、ベッドに寝かされる。
「……んー、ふかふかぁーやばい……天国かよ……」
うつ伏せに飛び込めば、全身を包むその感覚に意識をまるごと持って行かれそうになる。
せめてお礼を言わなければ。そう思い、「しいな、あんがと」と、手探りでやつの手を取ったときだった。ぎっとベッドが軋み、手首を逆に掴まれた。
そして。
「……椎名って、誰だよ」
「……へぁ?」
「……そうやって、他の野郎にも誘ってんのか?」
この声は。
「……ぁ、つ……?あれ、なんれ……」
ぼんやりと陰った視界の中、窓から差し込む月明かりに照らされたその顔は、見間違えようもない。アツだ。
どうしてここに、と続けようとしたときだ。顔が近付いてきたと思えば、思いっきり顎を掴まれ唇を重ねられる。
「っ、ん、ぅ……っ?」
優しく唇に触れるような感触。ひんやりとした指先。
一瞬自分が何されてるのかわからなかった。
「っ、ぁ、つ……っ?」
名前を口にしようとすれば、再び唇を重ねられた。
「ぅ、んん、……っふ、ぅむ」
先程の触れるだけのそれとは違う。噛み付くようなキスに、堪らず口を開けば太い舌が咥内へと侵入してくる。
唾液が擦れ合い、咥内いっぱいに生々しい水音が響いた。舌の裏スジを舐められ、唾液が溢れる。
夢にしては生々しいその感覚に、思わず笑ってしまう。
「は、やべ、おれ、弟とキスするゆめ、みて、る……ん……はは……ウケるー……」
そんなに仲直りしたかったのだろうかと思うと笑えた。アツは何も言わない。その代わりに、俺をベッドに押し倒すのだ。数年前よりも一回り大きくなり、逞しくなったアツに幼いときの面影は見当たらない。
こちらを見下す目はただ冷たく、そして、まるで知らない人間のようにすら見えた。
「……馬鹿兄貴」
夢の中、俺に馬乗りになったアツはそう言って自分のネクタイに手をかけた。
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