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息が乱れる。
「はっ、ぁ……ッ」
なにから逃げているわけでもないのに、何故だろうか。立ち止まれなかった。
ひたすら走って走って走って、とにかく保健室から離れることだけを考えて走っていた。
何事かとこちらを振り返る生徒の視線から逃げるよう足を走らせ、廊下を走るなと注意してくる教師を振り払う。
「ぅ、く……ッ」
こんなにも自分は泣き虫なやつだっただろうか。
階段の踊り場までやってきたとき、とうとう我慢出来ずに涙が溢れ出した。
周りに人気がないのを確認し、立ち止まった俺は嗚咽を噛み締め目元を拭う。
ああ、いやだ。駄目だ。今度こそ久保田に嫌われた。
赤く腫れた頬を押さえ、鼻を啜る。
おまけに馬淵の野郎は人の体で告白しやがるし。
最悪だ。
自己嫌悪と他者嫌悪。
やるせない気持ちと酷い喪失感にただひたすら落ち込んだときだった。
不意に、バタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。
「古屋君っ、古屋君ってば!」
馬淵だ。馬淵が追ってきている。
ああ、糞、嫌だ、あんなやつにこんな顔見られたくない。
上の段差へと足を掛け、追ってくる馬淵の声から逃げるように駆け上がろうとしたときだった。
二日間続けて渡利に性行為を強要されたお陰でガタがきていた体が悲鳴を上げた。
ただでさえ貧相な馬淵の体に踏み止まるような逞しい筋肉なんてついてはおらず。
瞬間、視界がぐらつく。
つるりと滑る足は足場を無くし、視界は暗転。
後方へ向かって落ちる体に視界に天井が映り込む。
全身を襲う、浮遊感。
ああ、最悪だ。
情けない。
全部全部、この体のせいだ。
こんな体にならなければよかった。
元の俺の体ならきっとこんな段差で足を滑らしてみっともなくすっ転んだり久保田の前であんな真似したりあまつさえ叩かれたりしなかっただろう。
全部、馬淵のせいだ。
入れ替わったりなんかしなければ全ては順調だったはずなのに。
ああもう、こんなの懲り懲りだ。
馬淵が羨ましいなんて二度と思わない。
だから、だから、早く、俺をここから出してくれ。
スローモーションで遠くなっていく天井を眺めながらそう口の中で呟いたのを最後に、俺の意識は途切れる。
完全に意識がなくなる直前、ふと傍でした懐かしい匂いを嗅ぎながら。
「……るや……」
遠くから声がする。
耳障りのいい、心地よい声が。
久保田の声に似ているな。
なんて思いながら小さく寝返りを打ったときだった。
「古屋っ!」
耳元で大きく名前を呼ばれたと思えば、乱暴に体を揺すられた俺はビクリと目を見開き、慌てて飛び起きた。
瞬間、ズキリと痛む背筋に小さく呻いた俺はそのままゆっくりと顔を上げる。
そして、目の前にいた人物に目を丸くした。
「くぼ、た……?」
そう、なぞるように名前を呼べば、そこにいたやつ……久保田は安心したように肩の力を抜き、そして、頬を綻ばせた。
「古屋……、よかった。お前、階段から落ちて気絶してたんだぞ」
「……気絶?」
夢か現かわからないままきょとんと久保田の顔を眺めていたとき、後頭部に鈍い痛みが走る。
「っ、つう……ッ」ずくずくと疼くそこを押さえ、あまりの痛みに呻き声が洩れた。
まるで鈍器で殴られたような痛みだった。
階段から落ちたって、そうだ、俺、確か馬淵から逃げて、それで階段踏み外して……。
そこまで思い出して、見落としかけていた重要なことに気付いた俺はそのまま恐る恐る久保田の顔を見上げる。
「……って、古屋……?」
「久保田、お前、今、俺のこと古屋って」何週間か振りに目と目を見て呼ばれたその名前に、そう呆然としながら尋ねれば久保田は「は?」と不思議そうな顔をする。そして、冗談だと受け取ったようだ。
「なんだ、お前打ち所悪かったのか?古屋は古屋だろ」
そう、笑いながら答える久保田にまさかと顔を青くした俺はそのまま自分の髪に触れた。
そこに長ったらしく垂れた前髪はなく、以前よりも少し長くなったくらいで変化ない見慣れた視野が広がっているではないか。
ただ、頭には包帯が巻かれていたがそれ以外は全て俺のそれだった。
それでもまだ実感が沸かなくて、俺はこれがただの幻覚かそれとも夢なのか確かめるため「なあ」と隣の久保田に声をかける。
「……俺の名前、なに?」
「ん?古屋将?」
ああ、間違いない。
…………戻った。
俺は古屋将の体に戻ることに成功した。
なんでもないようなその久保田の言葉に、当たり前だけど一番聞きたかったその言葉に、俺はただ嬉しくて嬉しくてつい「戻った」と声を漏らし、頬を綻ばせる。
その一言を違う意味に受け取ったようだ。
「は?なに?吐きそうなのか?先生呼んでこようか?」
俺が吐き気を催したと勘違いしたらしい。
言いながら慌てて立ち上がろうとする久保田の腕を掴み慌てて止めた俺はふるふると首を横に振る。
「俺は大丈夫だから、……もう少し、このまま」
一緒にいてください。
その一言が出ず、久保田を掴んだまま黙り込む俺に驚いたような顔をした久保田だったがすぐに笑みを浮かべ、再びそのまま椅子に腰を下ろした。
そして、不意に手が伸びてくる。
「なんだよ、やっぱ打ち所悪かったんじゃねえの?」
笑う久保田は言いながら俺の頭を優しく撫でる。
一瞬、思考回路が停止した。
久保田に、頭を撫でられている。
包帯が巻かれた部分を避けるように触れてくる指先から伝わってくる久保田の微かな体温に、馬淵ではなく自分が撫でられているという安堵を覚えた俺はすぐに緊張を解し、久保田にされるがままになった。
くすぐったくて恥ずかしくて触れた箇所が蕩けそうなくらい熱くなって、それでも、酷く幸せで。
心地よいその一時に身を委ね、永遠にこのときが続けばいいなんて危険思想を働かせたとき、呆気なく久保田の手が離れる。
名残惜しかったが、相手の手を握り返して頭を撫でることを強要出来るような勇気を持っていない俺はこの物寂しさと気まずさを振り払うように「そう言えば」と口を開いた。
「……そう言えば、馬淵は」
そう、思い出したように久保田に尋ねれば、久保田は「ああ、馬淵な」と頷いた。
それと、ベッドスペースを仕切っていたカーテンが開くのはほぼ同時だった。
「その前に、なんかこいつらがお前に話があるんだってよ」
何事かとカーテンの外に目を向けた俺は、そこにいた連中を見て目を見開く。
そこには、見覚えのある満身創痍の連中がいた。
俺が馬淵を虐めるよう利用し、情けなくも渡利に返り討ちにあって入院していた連中だ。
何故こんなところにいるのかとかどうして久保田がこいつらと一緒にいるのかとか聞きたいことはあったが、連中の底冷えした視線に俺は全てを悟る。
因果応報、なんて言葉が脳裏を過った。
「ちゃんと話聞いてやれよ?」
不良連中をバックにいつもと変わらない無邪気な笑みを浮かべる久保田に笑顔が引きつる。
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