落ちる赤信号

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 深夜の街外れには車が通らない。だから、自転車も歩行者も平気で赤信号を渡ってしまう。  そんな中、彼女はぴたりと赤信号で止まっていた。シルバーのシティサイクルに乗った彼女は、片足を地面に付けて、ハンドルをぎゅっと握り、じっと信号を睨み付けている。青になった瞬間、ペダルを踏む。まるで陸上選手のクラウチングスタートだった。その美しい姿勢もさることながら、律儀に赤信号で止まる彼女に、一目惚れしないはずもなく、この一ヶ月・週に二回・三日おき、昭和通三丁目の煌々としたイレブンの明かりの前で、彼女の「位置について」から「よーいドン」までを眺めることがすっかり習慣になっていた。その後は知らない。何せ、「ドン」と共に走り出した彼女は疾風だ。僕も自転車だから、追いかけることはできるけれど………いくら信号を守っていても、歩道を自転車で疾走するのは違反では、と思う。思うだけだ。注意すべきだけど、それ以前に信号無視する沢山の歩行者と自転車走者をスルーしている僕に、今更そんな権利はない。  それに彼女の凛々しい姿を、見れなくなるのは絶対に嫌だった。  今日も彼女がいる。赤信号の前でぴたりと止まり、赤信号を睨んでいる。  今日の彼女のファッションは、深緑色の短パンに黒のタンクトップだった。靴はいつものゴムサンダル。深夜バラエティーを見ていたとき、思い至ってアルコールをコンビニに買いに行く服装だけど、やっぱり露出が多い。それと、彼女はだぼっとした服装が好みらしい。  毎晩毎晩、超特急でどこへ行っているのだろう。彼女が赤信号で止まる一分半、僕はいつも想像を巡らす。  イレブンの前を素通りしているのだから、コンビニに用事があるわけじゃない。いや、イレブンでなくローソンじゃなきゃだめな理由があるのかも。  目当てはプライベートブランドのスイーツだろうか。しかし彼女の締まった太ももやすっきりとした顎から首のラインを見ると、「夜中にスイーツ」が結びつかない。  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、悪い男が絡んでこないのか、毎度毎度心配になる。  思いついたことがある。もしかして彼女は、エクササイズのためにあんなにも自転車で爆走しているんじゃないだろうか。ダイエットが必要な体型には見えないけれど、日々運動しているからこそスリムな体型を維持していられるのだ。  彼女は努力家の女の子なんだなあと思い、満足した。  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、すらりとした手足が眩しい。  先日の僕は、頭が悪かった。彼女の爆走はダイエットではない。根拠は二つ。彼女がスニーカーでなく、足を引っ掛けるだけのゴムサンダルであること。彼女がなんの上着も持っていないことだ。連日暑かったり、蒸していたりするけど、夜風はいつも涼しい。夜の運動をした後、汗をかいた皮膚を外気に晒せば肌寒さを感じ、挙句に風邪を引いてしまう。行きはともかく、帰りは一枚羽織るのが普通なんじゃないか。  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、もしかしたらその服しか持っていないのではと怪しんだ。この一ヶ月で見たタンクトップと短パンは三種類だ。それぞれ黒・深緑・イエローのタンクトップに、それぞれカーキー・こげ茶・水色の短パンだ。その三種類の服を日々ローテーションで着ているのなら、すなわち彼女は貧しいのだ。  夜な夜な出歩いているのは、アルバイトのためだ。二十四時間営業のファミレスかカラオケか、コンビニ。もしかしたら、夜の店ということもあるかもしれない。  ………下衆の勘繰りだ。  彼女が夜の店で働いているなら、どうする?  探すのか僕は?その店を探すのか?  情報社会の昨今、こっそり彼女の美しい鼻梁の横顔の写真を撮って画像検索をかければ、ホステスのサイトの宣材写真がヒットするのではないか。  やらないけど。  やらないよ!  プライベートを探るのは最低だし、勝手に写真を撮るのは肖像権の侵害じゃないか!  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、先日、彼女は水商売の人なんじゃないかと勘繰ったけど、どうやらその可能性は低い。というか、彼女が爆走するのは職場の行きか帰りでないことが分かった。  実は彼女に対する妄想、もとい想像を捗らせるべく、女性の常識を知ろうと思って職場の同僚に聞いてみた。女性の少ない職場で堂々としている同僚は、ちょっと雰囲気が彼女に似ていた。だから思考回路も似ているかもしれない、と安易に考えたのではないけど。同僚曰く、  「女は手ぶらで出かけないよ。馬鹿なの?」  「荷物を全部職場に置くことは?」  「化粧品、生理用品を全部置いていくわけないでしょ」  「深夜にちょっとコンビニ行くときも、いちいち鞄持っていくの?」  「んー」  同僚はちょっと考えて、財布丸ごとなら、あるいは。と答えた。  「ポケットに小銭を入れたりは?」  「それは、よっぽど女子力の低い女だね!」  僕は彼女の薄い短パンのポケットに、小銭が入れられるかどうか考えた。  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、さては着の身着のまま、命からがら逃げ出したんじゃないだろうか。  最たるはDVだ。彼女の父親か、考えたくないが夫や同棲相手が暴力を振るう男で、彼女は彼の怒りが冷めるまで、夜な夜な自転車を転がしているのかも。爆走は、彼女の鬱憤の発露だ。  ならば、僕は声をかけるべきなのかもしれない。児童虐待と同じで、周りの人間が敏感に察してやらなきゃ手遅れになってしまう。  ………でも違ったら、どうしよう。  もしお嬢さん、DV被害に遭われてませんか。なんて、いきなり声をかけるのか?明らかに変態だ。下手したら通報されかねない。それはちょっと、洒落にならなすぎる。  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、僕は今彼女に、悪い想像をしている。  嫌らしい妄想ではない。僕は今、『探しています―――』のチラシを持っていた。チラシにあるのは白い帽子とワンピース着たサンダルの女性のイラストだ。僕はぐっとチラシを見つめる。その目を保ったまま信号待ちの彼女を見つめる。  分からない。というのが正直な感想だ。分からない、これすなわち「違う」ということにならないだろうか―――ならないだろうな。僕は、彼女に声をかけるべきだ。先日妄想した不確定事項であるには変わらないけど、今日の僕には大義名分がある。もしお嬢さん、こんな夜に何をなさっているんですか―――  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、けれど僕はときめいている場合ではなかった。  先日、不甲斐なく、結局声をかけることが出来なかった。あらゆる人の赤信号を見逃し、彼女に声をかけることも出来ず、僕は駄目な人間だ。と三日三晩落ち込んだ。  「失恋したか?」  と職場の同僚にも散々心配された。違う。僕は失恋どころか、失恋を恐れて行動すら出来なかった。告白どころか、知り合ってすらない。不甲斐ない僕を誰か殴って欲しい。でも、同時に僕の気持ちを分かって欲しかった。  彼女に声をかけてしまえば、彼女の正体に拘わらず、彼女はもう二度とこの時間、この信号で止まらないかもしれない。例えこの信号で止まっても、もう二度と一心に信号を見つめる凜々しい横顔は見られなくなってしまう。チラシの女性と同一でなかろうが、一度僕みたいなのに声をかけられれば、ずっとその記憶が付きまとう。大袈裟でない自信はあるよ。それだけ僕は、人に警戒心を持たせてしまう。  ああ、今日も彼女が行ってしまう。  今日も彼女がいる。今日も赤信号を睨んでいる。  相変わらず短パンとタンクトップで、雨が降ったらあの上から合羽を着るのかしらと思った。天気予報によると、もうすぐやっと入梅する。昨今は異常気象が著しく、梅雨の時期も大幅に後ろ倒しになったそうだ。梅雨になれば、夜出歩くなんて危険なことをしなくなるだろうと、ほっとするのは少しだけ。彼女を梅雨の間見ることは出来ないとがっかりするのは三分の二程度の気持ち。  残り僅かな心の容量に何を押し込んでいるかといえば、このチラシ『探しています―――』の心配、もしくは焦燥、あるいは罪悪感、でなければ葛藤だ。  チラシを読む。 この顔にぴんときたら、110番!連続強盗! 手口:小型ナイフを突きつけ、「金を出せ」と女の声で脅します 風貌:長身痩躯 女性(イラストの服装) *抵抗しないでください。負傷者が出ています。  犯人はいつも、お札だけを抜き取りお財布は近くに捨ててしまう。  ………先日、彼女の薄いポケットにはじゃらじゃら小銭は重いのではと思ったのだけど、ならお札だけなら、ポケットにねじ込めるんじゃないだろうか。つまり僕が言いたいことは、彼女が強盗犯だってこと。  Q:白いワンピースは?  A:白いワンピースはお財布と一緒に捨てられているのです。  Q:帽子は?  A:同様。  Q:サンダルは?  A:〃  ならば、ああもラフな薄着に説明がつく。ワンピースの下が短パンとタンクトップなら、脱ぐだけですぐ変身できる。ゴムサンダルは、自転車のかごに入れておけばいい。シルバーの自転車なんてどこにでも放置されているから、どこに止めても目立たないし、あれも盗難車なのかもしれない。  彼女は貧乏だと、以前想像した。仕事の行き帰りではとも想像した。案外的を射ているのかもしれない。いや、貧乏=強盗ってわけではなくてね。  匿名で通報しようか。だめだ。公衆電話には漏れなく監視カメラがセットになっている。僕はいい加減、覚悟を決めなくてはならない。すなわち、彼女に声をかけるか否か。  ただの恋でも複雑怪奇なのに、まさかこんな葛藤が生じるとは。これが身分違いの恋か、なんてくだらない妄想に時間を費やし………今日も彼女は行ってしまった。  今日も彼女がいる。赤信号の前でぴたりと止ま―――らない!  ええっ?!  彼女は止まらず、ペダルを踏みしめ、立ち漕ぎで横断歩道を突っ切った。びゅぅんっという効果音が目に見えたが、次の瞬間、サイレンを鳴らした覆面パトカーが打ち消した。  『そこの自転車!止まりなさい!』  とスピーカー音。  『赤信号ですよ!』  僕は堪らず追いかけた。ペダルを踏みしめ、立ち乗りで、彼女と彼女を追うパトカーを追った。そして叫んだ。  「違うんです!違うんです!彼女はいつも信号を守ってるんです!」  彼女は続く赤信号を渡った。覆面パトカーも赤信号を渡った。僕も赤信号を渡る。  『そこの自転車!止まりなさい!』  「待ってください!」  『?!………そこの自転車、なぜ併走している』  ウゥー、ウゥーと騒がしいサイレンの中、冗談みたいな冷めた声だった。助手席に座る窓越しの目が痛い。  「違うんです………!」  サイレンを鳴らす警察車両と併走するのだ。僕はもう、肺と心臓がはち切れそうだった。  「違うんです!違うんです!彼女はいつも信号を守ってるんです!」  『なにを言っているんだお前は』  窓越しの呆れた表情。運転しているほうもちらりと、奇怪なものを見る目を一瞬向けた。  『怪しい奴だ。止まれ。おい、止まれって』  助手席の彼は僕と、運転している後輩に言った。運転している彼は「ええ?」と驚いたが、彼も彼で、信号無視と警察車両と併走する奇人とで天秤をかけたのか、先輩の言うとおりに停車した。僕も自転車を止める。汗がぶわっと噴き出した。  無茶な運動を急にしたから。そして、これからの自分の処遇の想像をしてしまったからだ。僕が今やった行いは、ただの信号無視―――全然「ただの」ではないけれど―――とはいえ違法した人を逃がす行為だ。停職は大袈裟かもだけど、減給ぐらいはありえる。でなくても絶対に怒られる………!  心臓が恐怖からバクバク鳴る。自転車を降りるのと助手席の彼が降りるのは、ほぼ同時だった。  ―――彼女が自転車を僕らの前に止めたのも、ほぼ同時だった。  巻き起こった疾風が、僕らの前髪を舞い上がらせた。いきなり目の前に、爆走の自転車が通り過ぎると思ったら止まったのだ。僕も彼も仰天した。彼女の呼吸はちっとも乱れておらず、僕と彼を交互に見て、最終的に彼のほうに視点を合せた。  「何で戻ってきたかって。よく分かんないけど、庇ってくれているみたいだったからこの人………」  僕を見ずに僕を指差す。かと思ったら、ぐるりとこっちを見た。  どきりとする。  「庇ってくれて、ありがとう。お巡りさん」  「え、あ、はい。いえ、こちらこそ」  「なぜお前が頭を下げるんだ」  助手席にいた彼の呆れた声。けれど、呂律の回らない僕は、喜びで今にも吐きそうだった。  「でも私が赤信したのは事実だから」  「そうだよ!」  急に声を張り上げたので、みんな驚いて僕を見た。  「どうして赤信なんて。いつもはあんなに守っているのに」  「………急いでいたし」  「あんなに爆走するんだから、一分半ぐらいどうってことないじゃないか!」  鼻の奥がつんとなって、じわりじわりと涙腺を熱くする。なんと僕は涙を流していた。なぜ僕は泣いているのだろう。彼女の赤信を止められなかった不甲斐なさからか、片思いから開放されて緊張が解れたからか、不可解なこの状況が恥ずかしいからか。  「警官が泣くな!」  助手席にいた彼が叫んだ。僕はびくりと機械仕掛けのように「気をつけ」になる。助手席にいた彼は両手を背中に隠していた。  「貴様は何者だ!」  「な、中警察署交通課有島公園前交番の佐藤郁夫。巡査です!」  「では彼女は何者だ」  彼女を手差しされ、僕は息を呑む。  彼女は夜な夜なコンビニに行く人―――または  ダイエットをする人―――または  水商売の人―――または  鞄を持ち歩かないだらしない人―――または  DV被害の人―――または  強盗犯―――かもしれない人。  全部推測だ。僕は彼女の何も知らない。  知っているのは姿形と、シルバーのシティサイクル、そして律儀さ。そう、律儀さ。彼女が赤信号を止まる様に、僕は恋に落ちたのだ。  「好きです」  自然と口を衝いた言葉だ。恋の赤信なんてくだらないことは言わないけど、名前も聞かず挨拶もなしに、いきなり好きと暴露するのはルール違反も甚だしい。  ところで、なぜあんなに赤信号を睨みつけていたのか。  「ああ、見てみれば分かりますよ」  僕は覆面パトカーの二人組と一緒に、イレブン前の横断歩道に戻った。  「ほらあそこ」  彼女が指差すのは信号―――ではなく、信号と一緒に吊るされている『昭和通三丁目』の住所標識だった。  「劣化が凄いでしょう」  「落ちそうですね………」  覆面パトカーの後輩のほうが言った。  その瞬間、標識が落ちた。  車も歩行者も自転車も、通っていなかったのが幸いだった。
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