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堕ちた男
金がない。
あるだけの資産をすべて売却しても全然足りない。
頼れる金持ちの親戚も知人もいない。貯金なんて最初からなかった。
次に不渡りを出せば俺の会社はおしまいだ。どうすれば……
男はうわ言のようにぶつぶつとつぶやき続けた。
バーに立ち込めるタバコの煙が鼻の奥に不快な臭気を擦り付けていく。暗がりの中から、容貌も定かでない客たちが立ち代わり現れ、また去って行った。カウンターで頭を抱えている男に注意を払う者はいなかった。
もっとも、どんなに親切な人物でも、血走った眼で髪の毛を掻き毟っている男に好んで近づきたいとは思わないだろう。よほど追いつめられているのか、彼の瞳はどこか遠くを見つめていた。
「お客さん」
頭の禿げたバーテンダーがカウンターに身を乗り出す。
「お代わりが必要ですか? それとも塩水が必要ですか?」
男は話しかけられたことにも気が付かない。しばらく沈黙があってやっと返事をした。
「くれ。もっと強い酒がいい」
「お客さんに何があったかは知りませんがね。いま潰れるのは勘弁してくださいよ」
「うるさい。黙ってろ」
「床を汚したら掃除代をいただきますよ」
「そうかよ」
バーテンダーは肩をすくめ、ウイスキーをグラスに注いだ。男はボトルがグラスから離れるや、即座にそれを煽った。
ウィスキーがみるみる減っていく。
それにしても酷い姿だった。もう何日も風呂に入っていないのか肌は汚れ放題で、不揃いのヒゲが、口と顎を覆っている。あまつさえ、ヒゲには吐しゃ物の残骸と思われるものがこびりついていた。よれよれのスーツとシャツはもう何日もクリーニングに出していないのだろう。おそらくはまだ若い、二十代の男のはずだ。しかし険しい顔立ちのせいで老けて見える。
普通の店ならば、こんな男は足を踏み入れるや追い出されていただろう。
だがここは、少し違っていた。
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