ヴィクトル・ラーゲルレーヴ

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 いずれにしても、フレドリカにとってのヴィクトル・ラーゲルレーヴは、世間で噂されるような恐ろしい人物ではなかったようだ。 (でも、ステファンは……)  先代公爵がしたようなことはしたくないと言っていた。ステファン自身は、その人のことをどう思っているのだろう。 「あ。そう言えばね、ステファンは、一度ヴィクトル様に会ったことがあるのよ」 「えっ!」  フランは思わず椅子から立ち上がった。  そんなこと、ステファンは一度も言わなかった。それに、あんな恐ろしい名前で呼ばれ、何十年も前に王宮から遠ざけられた人物が、その頃まで生きていたことに驚いてしまったのだ。 「別におかしなことはないわ」  フレドリカが笑う。追放されたにせよ自ら退いたにせよ、先代公爵がそこで命を落とす理由はない。暗黒城と呼ばれ始めた黒の離宮で、普通に晩年まで過ごしたのだと教えた。 「ヴィクトル様はクリストフェル七世陛下と同い年だったから、あの頃はまだ五十代の始めくらいだったかしら……。ステファンは四歳か五歳。一番手が付けられなかった頃だったけど、一度だけ、黒の離宮に呼ばれて会いに行ったの」  乳母から教育係に変わったばかりのフレドリカも同行した。ステファンと先代公爵が話したのは半時間ほどで、会ったのはその一度きりだったそうだ。 「ヴィクトル様はご病気で、それから間もなくお亡くなりになったわ。ご自身でもお身体のことを知ってらして……、だから、ご自分と同じ名前で呼ばれ始めたステファンに、何かおっしゃりたいことがあったのかしら。今から思うと、あの頃からステファンは少しずつ自分を抑えることを学んでいったような気がするし、きっと何か大事なお話をしてくださったんじゃないかしら」  フレドリカの話を聞くうちに、先代公爵がどんな人だったのか、フランにはますますわからなくなった。 (悪い人じゃなかった気がする。でも……)  恐ろしい事件を起こしたことは事実なのだ。  ふいに、「興味深いわ」とエミリアが呟いた。 「光の神子の次は、闇の魔王について調べてみようかしら。面白いお話が書けそう」 「書くのはいいけど、人気が出るかしら……」  フレドリカが曖昧に笑う。 「あら。どういう意味?」 「ボーデン王国で絵本を読むのは、貴族や裕福な商人の家の子どもたちだけよ」  その親が好む題材は決まっているとフレドリカは言う。昔話や妖精の話、可愛い生き物の話、そして王家の成り立ちや神話を題材にしたものばかり。貧しい者や貴族たちが嫌っている人物が主人公では受けないのではないかと。 「光の神子の絵本が売れたのは、ギリギリのところでその人たちの好みに合っていたからじゃないかしら」 「お母様って、ほんとに厳しいのね。私の実力ではないっていうわけね」 「そうは言ってないわ。需要の話をしているの」 「需要ね。フランはどう思う?」  急に話題を振られてドキッとするが、すぐにフランは「読みたいです」と答えた。本心だ。 「闇の魔王って呼ばれてる人が、本当はどんな人だったのか知りたい……。みんなにも……、たくさんの人に、知ってほしいです」  本当はいい人だったなら、なおさら。 (ステファンもことも……。ステファンが本当は優しい人だってことも、いつか知ってほしい) 「ほらね」  にっこり笑ったエミリアに、フレドリカは困ったような笑みを返した。 「反対しているわけじゃないのよ。ただ、本にならなかった時、がっかりしてほしくないだけ」  母親というのは過保護なものなのよと続けて、フレドリカは肩をすくめた。  エミリアは「もっと、世の中の人たちみんなが文字を読めたらいいのにね」と言った。 「貴族やお金持ちに都合のいい話ばかりじゃ、面白くないじゃない」  ね、と同意を求められて、大きく頷く。 「光の神子の話だって、本当は、一番苦しい場所で生きている人に届いてほしくて書いたのにな……」  最も貧しい者の中に生まれると言われる「光の神子」。けれど、その物語を求める人々のほとんどは、文字を読むことができない。エミリアのため息を聞きながら、フランも願った。 (みんなも、字を習えたらいいのに……)
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