バスの中

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 真冬のバスは暑い。異常なほど暖気された車内は雨に濡れた人々の熱気と混ざり合い、鉛のような質感になっていた。このバスは町はずれの住宅街にあるバスターミナルから、海沿いにある観光地を過ぎた駅前までを繋ぐ路線で、その途中には県立高校がある。普段どおりの朝ならば人の少ないこのバスも、雨や雪が降ると自転車通学の生徒でごった返してしまう。  幼いころからどうしても自転車に乗れない私は、毎日ターミナルから数えて二本目のバス停からこのバスに乗っていた。学校からは「他の利用者の皆さんのご迷惑にならないよう、できるだけ席には座らないようにすること」と言われてあるが、従順に守っている生徒なんて誰一人もいない。朝から疲れたくないのは、他の利用者さんも私たち生徒も同じだ。大抵の生徒はお年寄りや親子連れ、妊婦、具合の悪そうな人を見たら立ち上がって席を譲っているし、私もそのくらいで充分だろうと常々思っている。  ドアが開く。皆が一度携帯電話の画面から目を離しスペースを作る。できた空白に新たな生徒が乗り込む。運転手がぼそぼそと発進を告げ、それと同時にドアが閉まる。再びバスが動き出す。  入り口付近に目をやると同級生の女子がこちらを見て笑っていた。口の形で、おはよう、と伝えてくるのでそっくりそのまま返してやる。彼女は普段自転車通学で、天候の悪い日だけこのバスを利用するが、彼女の家の近くのバス停は路線の中頃にあって、そういう彼女が座席に座ることはなかなか難しい。  さらにしばらく進んで高校前。車内から一斉に生徒が吐瀉され、私もその中に混じる。運転手に惰性そのままの礼を伝え、もちろん運転手も何も言わない。校門まで傘を差すか迷っていると、 「おはよう」  歩道の隅で立ち止まっていた同級生がそっと私をその傘の内に誘導する。 「おはよう。寒いねえ」  ダッフルコートのポケットに両手を突っ込みながら素直に彼女の傘に入る。 「寒いねー。スカート穿くのがしんどいよ。わたし、きょうタイツ百二十デニール。しかも裏起毛だからね」 「いいなあ、私八十だ」  華奢な身体つきの彼女が細い脚にまとわせる肉厚なタイツは何となくアンバランスに思えたが、どのような状況であれ寒さには勝てない。自分も近々厚手のタイツを買おうか、しかしバスの中は蒸すように暑いし、などと考えながら私は彼女と共に校門をくぐった。  私たちはクラスが違う。C組の前で彼女と別れ、私はD組に入る。幾人かの友人たちと挨拶を交わし、机の上に鞄とコートを放って、スマートフォンだけを手に自らを招き入れてくれる輪に参加する。昨日観たテレビ、キュレーションサイトの情報、SNSのハッシュタグ、別クラスの噂話に街中の新店。自分でも、なぜこうも毎日話題に尽きないのか不思議に思う。  あるいは、「大人」という生き物から見たら私たちがこうして話している内容なんて「話題」とカウントするまでもない、取るに足らないものなのかもしれない。いや、事実そうなのだろう。だからといって私はこの時間を自ら切り捨てようとは思わない。良くも悪くも、今が楽しければそれでいい、それが子どもの特権で、子どもはそう在って然るべきなのだ。当時の私は、子どもとは得てしてそういう生き物であるのだと思い込もうと必死だった。  鐘が鳴り、各々席に着き始める。私も放り投げてあった上着と鞄を片し、携帯電話をサイレントモードに切り替えて机の中にしまう。しばらくすると教師がやってきて、代り映えしない話を普段通りの口調で話し始めた。
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