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03.錯覚
「こんにちは」と声をかけられたのは、自宅を出てしばらくしてからのことだった。
一軒家が並ぶ閑静な住宅街。そのあいだを縫うように走る細い道路の一つを一樹は歩いていた。
車がすれ違うにはやっとの道幅だった。本来であれば事故に遭わないよう、道の端を歩くのがマナーなのだろうが、一樹は堂々と道の真ん中を闊歩する。他に人影は見当たらない。
だから一瞬、どこから声をかけられたのか分からなかった。
一樹は辺りを見渡し、振り返った。
視線の先に電柱があり、そこにもたれ掛かるように一つ青い人影があった。
丈の長いパーカー。──どこか見覚えがあった。
フードを目深に被っているが、表情はかろうじて見てとれる。やや不安そうな顔が覗いている。
年齢は一樹と同じ二十歳前後だろうが、その姿と、声をかけられたシチュエーションがこれ以上とないくらい怪しい。普段ならそう思い相手にしないのだろうが、不思議と無視するような気分にはならなかった。
一樹は軽く会釈した。
「えっと。はじめまして、ではないよな?」
「うん。覚えていてくれて嬉しい」
女性は、はにかんだように微笑んだ。さわさわと風が吹き、青いフードからわずかにはみ出た髪を揺らした。
「俺になにか用?」
わざわざ背後から声を掛けたのだから、きっとそうなのだろう。一樹が話を促すようにそう言うと、彼女は頷いた。
「このあいだの返事、聞こうと思って」
「このあいだの、返事?」
おうむ返しに一樹は言って首を傾げた。
「忘れちゃった? 助手になってほしいっていう話」
「助手? 助手……、あー」
糸を手繰り寄せるように、ゆっくりと思い出す。そんな話をどこかでした気がする。
「いま急いでるから話はまた今度って、君はアパートの階段を駆け上がっていったんだよ。このあいだは急いでるときにごめんね」
「はぁ」
一樹は生返事をして目を瞬いた。
そう、だっただろうか。そのあたりの記憶がどうも曖昧だった。
だが思い返してみると、おぼろげにそんな場面が浮かんできそうだった。もう少し粘る。
あれはいつだったか。恭介の家でゲームに興じる前、彼の家に上がる前にそんな話をした。服装は目の前の彼女と同じだった。
その時はあまり表情が見えず、うだるような暑さと抑えられないゲーム欲で、なあなあに遇ってしまった。そうだ、思い出した。
「えーっと、気に触るようなことをしてしまっていたらすみません」
一樹はとりあえず謝っておいた。
女性は、気にしていないよ、と首を振った。
「これ夢だから。普通、興味がないことはだいたい記憶から抜け落ちちゃう」
「それはよかった、……ん?」
──夢?
一樹は心中そう反芻して、目を瞬いた。
「自己紹介しなくちゃね。わたし、水雲鈴音」
彼女は清流のように淀みない流れで腕を差し出した。
その雰囲気に飲まれたように、一樹も反射的に腕を伸ばす。
「……一樹。中葉一樹です」
そのまま握手を交わした。女性にしては大きい手だと思った。
「よろしくね。よし、ちゃんと自己紹介えらいぞ」
水雲と名乗った女性は、急に茶目っ気のある声音で腕を伸ばしてきた。
「うわ」一樹は声をあげた。頭をわしゃわしゃと撫でられた。
慌ててちょっと身を引いた。
「ちょっと、いくらなんでも子供扱いしすぎじゃないか」
水雲は自分の手を所在なさげにブラブラさせた。
「え、だって君、小学生、だよね?」と戸惑った表情をして小首を傾げた。
「小……」
流石に絶句した。
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