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偶然の出会い
その春大学予科を卒業した俺は、スケッチブックを片手に海沿いの道を歩いていた。
もて余した時間を埋めるための、ほんの気まぐれにすぎない。
急な坂をゆっくりと上る。この峠を登れば海が見える。写生にはもってこいだろう。
春の陽にじっとりと汗ばんだ額を拭い顔を上げたその時、俺の中で何かがカチリと音をたてた。
道は大きく右に曲がり、正面には平屋の古びた一軒家がポツリと建っている。
低い山茶花の生け垣からのぞく小さな庭に面した縁側に、その女は座っていた。
長い黒髪をひとつに束ね、からだの前へと垂らしている。
透けるように白い肌はまるで陶磁器のようだった。
生きた人間か、はたまた大きな人形か。
俺は、確かめるためと自分の中で言い訳をしながら生け垣に近寄った。
気配を感じたその女は、伏し目がちな目をこちらへと投げかけた。
不思議そうにこちらを見るその目に生気はなく、何か怪異をその身に宿したかのような浮世離れした空気を纏っていた。
俺は、その女から目が離せなかった。
一時でも目を離せば消えてなくなりそうな儚さを感じ取っていた。
「あの……」
俺はカラカラに乾いた口から声を絞り出した。
「貴女を描かせてくれませんか?」
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