距離感

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距離感

 通りすがりの見たこともない男に絵を描かせて欲しいと言われれば、誰でも少なからず警戒するだろう。 俺は激しく後悔した。 「あ、あの、怪しいもんじゃないんで!」 俺は身分を証明するために大学予科の学生証を出した。 「これ、見てもらえれば分かると思うんですが……」  しかし、彼女からは意外な言葉が返ってきた。 「その生け垣からこちらへとお入りにならないのであれば、どうぞご自由に」  俺は夢見心地で学生証をそっと生け垣の上におき、水琴窟に落ちる水滴のような儚い声に従って、生け垣越しに立ち彼女の姿をスケッチブックに写し取った。  翌日から、俺は同じ時間に彼女のもとを訪れた。 彼女はたいてい縁側に座り、ぼんやりと庭を眺めていた。    二言三言挨拶を交わし、折り畳み式の椅子を広げる。  路地裏の密会はやがて人の噂に上った。 「圭吾さん、一体何を考えているの?みっともないからおよしなさい!」 ヒステリックな母親の小言にうんざりしながら、逃げるように俺は屋敷を出る。  四月に入り、大学が始まっていたのは幸いだった。学校を理由に母親の追求を逃れることができる。  胸を撫で下ろしたのも束の間、教室ではゴシップ好きな田辺に捕まった。 「深層の令嬢に熱を上げて、通いつめてる画家ってのはお前の事だろう?」 俺はやれやれとかぶりを降った。 「俺は画家ではないし、お前の喜ぶようなそんな浮わついた話ではないよ」 「照れなくてもいいだろう?」 「照れてなどいない。真実だ。そもそも俺は彼女の名前すら知らない」  それを聞いた田辺は同情するような目で俺を見て言った。 「呆れたな。奥手にもほどがあるだろう? そうだ、これを貸してやろう」 田辺は俺の手に、無理矢理分厚い本を押し付けた。 「花言葉……図鑑?」 「そうとも。ロマンチックな花言葉を選んでその花を贈れば、大抵の女は喜ぶさ」 なるほど、田辺の回りに女が集まるのはこういった地道な努力の賜物か。 「まぁ、先ずは名前を聞くことだ!」  そんなことを言いながらヒラヒラと手を振って、田辺は行ってしまった。
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