理想の人に出会いました

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理想の人に出会いました

 静かな室内――  カサカサと紙をめくる音や、カツカツとペンを滑らせる音が、不自然なほどよく聞こえる。  沈黙の中、緊張で高まった胸の音は、先ほどからドクドクとうるさく響いていた。膝の上で握りしめられた手も、びっしょりと掻いた汗で濡れている。  目の前にある長机の向こうに視線が四つ。  広い部屋の中央に、ぽつんと一つ置かれた椅子に座る自分の足が、小刻みに震えているのが感じられる。  いますぐにでも、逃げ出してしまいたい。そんな衝動をこらえながら、幸司は声を絞り出した。 「十四番の、か、神崎、こ……幸司です。しゃ、写真は、いや、写真を、撮るのは、……こど、子供の頃から、す、好きで、ずっとカメラには、ふ、触れて、きました。えっと、入賞歴はまだ、あり、ありません。現場での経験は、……それ、ほど、多くないのですが……何度か声は、かけていただいています」  吐き出す言葉が、まったくすらすらと出てこない。喉の奥になにかがつっかえたように、うまく話すことができない。  そうするとどんどんと緊張が高まり、ますます舌がもつれ始める。事務的なありがとうございました、の声を聞いた時には、どっと汗を掻いた気分になった。  ようやく開放される。それとともに、今回は駄目だろう。そんな諦めの感情が湧いた。  出版社の専属カメラマンのアシスタント。それは学生向けのアルバイトで、冬休みのあいだ契約してもらえる、体験学習に近い。  認められれば、そのあとも定期的にバイトが続けられる、というまたとないチャンス。  専門学校の掲示板で見つけた、この求人に飛びついたのが二ヶ月前のこと。  身近な人間で、二次選考に進んだのは幸司だけだった。  その状況に期待が大きく膨らみ、今日、この日の面接に意気揚々と挑んだ。  だが幸司は気持ちが舞い上がりすぎて、すっかり忘れていた。  自分が極度のあがり症であることを。  初対面の相手とは、まずまともに話ができない。あまりにも酷く、大概吃音かと言われる。さらには緊張しすぎて、人の顔も覚えられない。  いま周りにいる友人たちは、その性格を知って、気長に慣れるのを待ってくれた面々だ。  専門学校に入って一年半ほど。そんな環境に馴染んで、少しは自分の性格が改善されてきた、と勘違いをしていた。 「ここに受かってたら、三年になってから就職活動する時に、有利だったろうな」  後ろ髪を引かれながら、幸司は大きなビルを見上げる。結果は想像どおりで、三次選考には残れなかった。  しかし未練がましくここに立ち尽くしても、結果が変わるわけではない。  丸まった猫背をそのままに、駅に向かって歩き出す。  道すがら出てくるのはため息ばかりで、幸司は自分の情けなさに打ちひしがれた。 「だけど、なんかキラキラした感じの人が多かったよな。やっぱり見た目がいいほうが得なのかな?」  人の顔はわからなくても、雰囲気くらいは幸司にもわかる。  洒落た服を着ていて、いまどきの明るい髪で、どう逆さに見ても幸司からは感じられない、華やかさがあった。  とはいえ幸司も、身長は平均よりも随分高いほうで、猫背を治せばもっとすっきりと見える。  ただあがり症が高じて、人の顔をまっすぐに見られないため、俯きがちなのだ。  相手の視線が届かないようにと、真っ黒なくせ毛の髪と野暮ったい黒縁眼鏡で顔を隠している。  そんな自分の容姿を鑑みて、それではどうしたってあの人たちには敵わないと、諦めの境地になった。 「見た目とか性格が駄目なら、もっとほかのところで俺は箔を付けるべきだ」  これまで幸司はコンテストの類いに、入賞したことがない。一つ肩書きがあるだけで、面接も有利になるだろう。  鞄から取り出したスマートフォンを操作して、学校のホームページを開く。そして掲示板を眺めて、これから参加できそうな企画を探した。  もう今年もあと四ヶ月ほど。年内は諦めて、来年の公募をいくつかピックアップし、メモ帳に貼り付ける。 「これまでどおりじゃ駄目だよな。画面全体が、大人しくまとまりすぎてるって言われたことがあるし。いつも静的な写真が多いから、ここはイメージを変えるためにも動的な、もっと明るくて、華やかな」  ふっとなにかアイディアが、舞い降りてきそうな感覚に、ぎゅっと手を握りしめる。さらに気合いを入れるように力んだ。  しかし道の途中で立ち止まったせいで、人の流れに逆らってしまった。  前から歩いてきた人が、幸司を避けきれずにぶつかった。とんと肩に小さな感触がして、我に返った幸司はとっさに、大きく頭を下げる。 「す、すみません! ま、ま、前を見てなくて!」  振り子人形のように、ぶんぶんと頭を上下し続けると、すぐ傍でふっと笑う気配を感じた。  それに気づくと、恥ずかしさが込み上がる。けれどあたふたと落ち着きのなかった幸司は、ぽんぽんと肩を優しく叩かれて、ハッとした。 「大丈夫、そんなに謝らなくっていいよ。ごめんね、驚かせちゃったね」  小さく笑うその人は、色っぽいハスキーボイスで、立ち尽くす幸司を見ながら長い髪を耳にかける。  向けられる視線が変わらない位置にあって、自然と幸司は足元を見てしまった。  その人は細長いヒールを履いていた。その高さが五、六センチ程度あったとしても、かなり背が高い部類だ。  ファッションモデルか、それに近い職業だろうと思った。ズボンはゆったりとしたものだが、足の長さもよくわかる。それに加え、身体のラインに沿ったぴったりとした衣装。  立て襟と深いスリットの入った形が特徴的な、ひらひらと袖や裾が揺れる翡翠色のアオザイが、余分なしわもなくぴったりと身体にフィットしている。  どこかでロケでもしているのだろうかと、幸司は視線をキョロキョロと動かした。 「気をつけてね」  また小さく笑われて、よそ見をしていた幸司は、思わず顔を上げた。するとまっすぐな視線と目が合う。  光を含んだ、キラキラとした淡い紫色の瞳。目元に引かれた赤いラインが、色気を感じさせて、ドキリとする。  艶っぽい雰囲気がある人だと感じていたけれど、目の前の美しく整った顔立ちは、息をするのも忘れるほどだ。  思わず惚けたように見つめれば、その人は再び優しく幸司の肩を叩き、横を通り過ぎていった。  その瞬間に甘い香りがして、嗅覚が刺激される。  数秒そこで固まって、我に返った時には踵を返していた。遠ざかる背中を追いかけて手を伸ばす。 「すみません! 俺のモデルになってください!」  腕を掴まえて即座に出た声は、先ほどの面接のどもりが嘘のような、はっきりとしたものだった。そしてひどく大きく、通りすがる人たちがなにごとかと振り返るほどだ。  けれど目の前にいる人に、気を取られている幸司は、それに気づいていなかった。
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