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あいだにある大きなズレ
駅前でタクシーを拾い、半ば押し込めるように乗せられた。真澄が告げた行き先は、四つほど離れた駅だった。
思っていたよりも、近くに住んでいたことに驚かされる。
さらに言えば、そこは高級住宅地で、地価が高いことでも有名だ。ただの美容師にしては、いささかセレブすぎる気もした。
彼の過去がいまさら気になり始める。とはいえ車の中では、聞くことがはばかられて、幸司は口が開けなかった。
しばらく街道沿いを走っていた車は、先ほど聞いた駅の前を過ぎると、住宅街へと進んでいく。
邸宅という言葉が、ぴったりな家々を横目にたどり着いたのは、五階建てのデザイナーズマンション。
エントランスも広く、ロビーや中庭まである。エレベーターが上昇するほどに、幸司の緊張も増した。
「真澄さん、すごくいいところに住んでるね」
「そうかな? もらった部屋だから、いいか悪いかはわからないけど。わりと便利だよ」
「もら、った?」
「昔、仕事でね。なんて言うのかな。ああ、そう水商売的な。人を接待するお仕事」
「え? 接待?」
予想外の言葉に幸司がぽかんと口を開くと、タイミング良くエレベーターが五階に到着する。
ゆっくり開く扉の向こうには、長い廊下が見えた。
「こうちゃん、おいで」
身動きできずに固まっている幸司の手が、そっと握られる。導かれるままに足を踏み出せば、真澄は突き当たりで立ち止まった。
カードキーで解錠する様子を眺め、開かれる扉に胸をドキドキとさせる。
照明に照らされた玄関は、幸司の自宅のものより広い。さらに向こうにある扉を抜けると、大きな窓を設えたリビングダイニングに迎えられた。
「あっ」
「こうちゃん、どうかした?」
「いや、匂いが」
「匂い?」
「真澄さんが、いつもつけてる、香水の香りがする」
ふわっと鼻腔をくすぐる芳香。きつくはないけれど、ここにいると匂いに包まれている錯覚がする。
だが本人はもう馴染みすぎているのか、不思議そうに目を瞬かせた。
「臭いようなら換気する?」
「大丈夫、そういうわけじゃない」
ただこの香りを嗅ぐと胸が騒ぐ。真澄に抱きしめられた時や、情事の最中を思い出すからだ。
鼓動が落ち着きなさを増して、幸司はぎゅっと胸元を押さえた。
「真澄さん、一人でここに住んでるんだよね?」
「そうだよ」
「寂しく、ない? なんかやけに広くて、ちょっと寒々しい」
部屋の中は散らかっている場所など一つもなく、綺麗に片付いている。それに加え、すべてがモノトーンで揃えられているために、無機質な印象があった。
モデルルームのほうが、まだマシのように思えるくらいだ。
「慣れちゃったかな」
「そう、なんだ」
「でも最近は、こうちゃんのおかげで心が穏やかだよ」
「え?」
「こっち来て」
リビングから繋がる扉を開いて、真澄は幸司を促す。恐る恐る部屋の中を覗くと、照明がつけられた。
柔らかな暖色の光が広がった、そこはベッドルームだった。隣の部屋と変わらないくらい広い。
書斎と寝室を兼ねているのか、半分は本棚や机がある。足を向けると、花瓶に花が挿してあったり、フォトフレームが飾られたりしていた。
写真に写っているのは笑顔の真澄と幸司だ。
「思ったより、普通?」
部屋の中を見回して幸司は首をひねる。もっと盗撮写真で溢れているのかと、警戒していたのに拍子抜けをした。
興味が引かれるままに、本棚の背表紙を追いかけても、洋書が並んでいるだけだ。
しかし部屋のカーテンに手をかけて、幸司は足を止める。
甘えるように髪に頬を寄せ、真澄が背後から抱きついてきた。背中のぬくもりに、とくんと胸の音が跳ねる。
「こうちゃん、好きだよ」
「真澄さん?」
「ずっと、ここにいてよ」
「え?」
耳元に囁かれた切ない声。それに振り向くと、顔を近づけてきた真澄に口づけされる。やんわりと触れる唇は優しくて、思わず瞳を閉じてしまった。
「んっ、……えっ?」
しばらくキスに身を任せていたが、カチッと言う音と、手首に感じた違和感に、慌てて目を開く。至近距離に迫った真澄の顔が、眼鏡越しにぼやけて見えた。
彼は幸司と視線を合わせると、にんまりと笑う。
「つかまえた」
弧を描いた唇、じゃらりと鳴る金属音――とっさに手首に視線を落とせば、両手に革製とおぼしき手錠がはめられていた。
そこから繋がる鎖は、真澄の手に握られている。
「ずっと、こうしたかったんだよね。こうちゃんを繋ぎ止めたかったんだ。これからは一緒にいられるよ」
「真澄さん! ま、待ってよっ、これは、ちょっと」
「言ったよね? どんな俺でも平気って。それともあれは嘘だった? 本当の俺が知りたいって言ったのも?」
「そ、それは、うそ、……じゃないけど。でもっ」
「あっ、そうだ。写真、増えてどうしようかと思ってたけど。こうちゃんがいるんだし、紙に写したものはもう必要ないかな?」
手を伸ばした真澄は、先ほど幸司が手をかけたカーテンを、ゆっくりと引き開ける。そこに現れたものに、幸司は息を飲んだ。
床から天井までびっしりと、壁に貼り付けられた写真の数々。写っているのはすべて幸司だ。
「なんで、なんでこうなったの?」
「なにが?」
「これじゃあ、真澄さん、……ほんとにストーカーと変わらないよ!」
「ストーカー? 俺とこうちゃんは、恋人だよね?」
「真澄さん! これは普通じゃないんだってば! こんな執着の仕方、おかしいよ!」
「……なにが? よく、わからない。ただ俺は、知らないこうちゃんがいるのが、嫌だっただけだよ。好きだから、全部欲しくなっただけだよ」
なにもおかしなことを言っていないから、余計に異質に感じる。子供みたいに驚いた顔をして、瞳を瞬かせる彼が、ひどく可哀想に思えた。
そしてそれ以上に――
「俺は、怖いよ! 真澄さんが、怖い」
「なんで泣くの?」
力なく身体が沈み込み、幸司はその場にうずくまった。それなのに目の前の彼は、変わらず不思議そうに、見下ろしてくる。
心のずれを感じて、言葉にしがたい寂しさに襲われた。
「こんな一方的なのは嫌だよ。もっと恋人っぽいのがいい」
「恋人らしいって、なに? 俺、なにか間違ってる?」
「だいぶ常識からずれてるよ! 普通はこんなこと、しないよ!」
ボロボロとこぼれ落ちる涙を、拭うたびに鎖のこすれる音が響く。無機質な音は冷たくて、胸に湧いた寂しさを膨れ上がらせる。
「真澄さんと、ずっと一緒にいたかった。だけどこんなのはやだ。俺はものじゃないよ! おもちゃじゃない!」
「こうちゃん、なんで怒ってるの?」
「どうしてわからないの! 真澄さんの好きってなに? 特別ってなに? 繋いで閉じ込めて、それで満足? 俺の気持ちはどこにあるの!」
窺うように伸ばされた、真澄の手を勢い任せに払う。その様子はかんしゃくを起こした子供と変わらない。しかしそう思っても、幸司は彼を受け入れがたかった。
いつもの明るい笑顔が黒く塗りつぶされて、悲しくて寂しくて、しゃくり上げるようにして泣く。
戸惑う瞳で見つめられるけれど、いまはただ声を上げて泣くしかできなかった。
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