大切な二文字

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大切な二文字

 しんとした空間に、幸司の泣き声だけが響いた。泣きすぎて呼吸の仕方もわからなくなり、ひきつけを起こしたみたいに声が震える。  目の前に立つ真澄は、そんな様子を見つめて、ただ立ちすくんでいた。 「そんなに泣かないで。なにが駄目なの? なにがおかしいんだよ?」  途方に暮れたような顔。ようやく膝をついた真澄は、幸司の服をきゅっと握る。そして恐る恐ると言ったぎこちなさで、頬を撫でてきた。 「こうちゃんが好きだよ。それだけじゃ駄目なの? 俺にわかるように教えてよ」  涙と鼻水で汚れた幸司の顔を、一生懸命に拭ってくる真澄も、いまにも泣きそうな顔になる。不安げで、頼りなげで、これまで見たことのない表情だ。  唇を引き結んだ幸司が見つめれば、彼は怖々と手を伸ばしてくる。腕の中に閉じ込められて、真澄の匂いを感じると、昂ぶった感情が少しだけなだめられた。  こんな状況なのに、幸司はまだ彼のことが好きだと思う。 「俺、こうちゃんを傷つけた? ごめん、……初めてだから、加減がわからなくて」  世の中の普通、それになぞらえるなら、これが加減の問題ではないことくらい誰にでもわかる。  けれど真澄は人の愛し方がわからないのだ。恋愛を面倒くさがっていたのは、恋の仕方を知らないからだろう。 「俺だって、初めてだよ! それなのに、いきなりハードモードすぎるし、こんなの、予想外すぎるし。もうやだよ」 「……こうちゃん?」  自分を抱きしめる手が震えたのを感じる。身体が強ばって、息を飲み込んだ。幸司はそんな恋人の顔を見上げて、眉を寄せる。  暖色の蛍光灯の下だというのに、顔が真っ青で、見つめる瞳には涙が浮かんでいた。 「こうちゃん、俺のこと」 「嫌いなんて、言ってないよ」 「でも」 「これ、外してよ。これじゃあ、真澄さんのこと、……抱きしめられない。それが嫌だ。真澄さんはずっとこのままで、いいの? 俺を物理的に繋ぎ止めても、これじゃあ心が離れちゃう」 「……それは、やだ」  瞬いた瞳からぽつんとこぼれ落ちたものは、ひどく儚く、そして綺麗だった。小さく鼻をすすりながら、立ち上がった真澄は、机に向かい足を進める。 「ねぇ、こうちゃん」 「な、なに?」 「逃げたりしない?」 「え? し、しないよ」 「絶対にしない?」 「しないってば!」  引き出しから取り出した鍵を手に振り返る、彼の目が疑い深そうに細められた。  正直言えば怖い、けれど――いま逃げたら、真澄は本当に幸司を閉じ込めて、逃がさないに違いない。  掛け違えたボタンがズレたまま、きっと一生、二人の関係は元に戻らない。 「俺はね、こうちゃんがいればいい。なんにも欲しくないんだ。ずっと、ずっと一緒にいてくれる?」 「一緒にいるよ。ま、真澄さんこそ、もうこんなことしないで。俺は傍にいるから」 「ほんとに? もういらないって、いつか俺のこと、捨てたりしない?」 「しない、しないよ。なんでそんなに、疑うの?」 「……いらないからって、もう愛してないって、捨てられたから」  ぽつりと呟いた彼の声。  夜景を見つめていた、あの時の横顔を思い出す。  ここではないどこかを見るような遠い目は、触れてはいけない場所に、触れてしまった気分にさせる。  それでも幸司は、いま無性に彼が知りたくなった。 「誰が、そんなひどいこと、言ったの」 「たぶん、母親なのかな。いまはもう、わからないけど」 「……たぶん」 「ずっと外に出たこと、なかったからさ。知らない人が来て、迎えに来たよ、なんて言うまで。窓の向こうしか知らなかった」  平坦な真澄の声に、幸司は震える息を飲み込む。本当になにも、わかっていないという顔をしている。  母親――が、彼にこんなことをしていたのだろうか。相手を縛りつけることが愛情だと、勘違いさせるくらい長い間。  想像するだけで、見たこともないその人が、憎らしく思えてくる。幸司は怒りで胃が熱くなるのを感じた。  一方的な感情で閉じ込めて、自分に不要になったら、あっさりと切り捨てる。そんな非情なことができる、人が本当にいるのかと胸が痛くなった。 「こうちゃん、どうして泣くの?」 「真澄さん、早くこれ、外して。俺、いますぐ真澄さんを抱きしめたい」  重たい鎖、それを持ち上げて彼に両腕を差し出す。じっと幸司が見つめれば、まっすぐに見つめ返された。  この胸にある想いが同情、だとしても、いま恋人を抱きしめずにはいられない。 「こうちゃんは、俺のお日様だから、……いなくなったら俺、生きていけないよ」 「うん」  ゆっくりと近づいてきた真澄は、そっと幸司の手を取り、鍵穴に収めた鍵を回した。カチンと小さな音が響いて、重たい枷が床に転がる。  それとともに幸司は両手を伸ばした。 「真澄さん、好き、好きだよ。俺はずっと好きでいるから」 「こうちゃん、それ、ほんと?」 「うん、本当だよ。だって俺はずっと真澄さんが好きだから」 「やっと、やっとそれ……言ってくれたね」  しがみつくみたいに抱きついてくる真澄を、きつく抱きしめて、幸司はようやく気づいた。  なぜ? どうして? の意味。彼を追い詰めた理由に。 「真澄さん好き、好きだからっ」  ――目いっぱい好きって言ってくれる?  あの日から一度も、幸司は伝えることをしてこなかった。愛されることばかりに満足をして、大切なことを忘れていた。  彼がずっとこの言葉を待っていたのだとしたら、きっと暗闇を歩いているような気持ちだっただろう。 「真澄さん、好き」 「俺もこうちゃんが好きだよ」 「ごめん、ごめんなさい」 「それを全部、好きに変換してくれたら、許すよ」  抱きしめたはずが抱きしめ返されて、また腕の中に閉じ込められる。その温かさがやけに胸に沁みて、幸司は背中を抱きしめる腕に力を込めた。 「好き、大好き」 「うん」 「真澄さんがいいよ。真澄さんじゃなきゃ」  優しい声で返事をする恋人にすり寄ると、小さく笑われた。その反応を訝しく思うが、彼の服を涙や鼻水で汚していて、幸司は慌てて身を引く。 「ご、ごめんっ」 「いいよ。このくらい。泣かせたのは俺だし。……こうちゃんは、まるでヒヨコみたいだね」 「え? ヒヨコ? あ、ちがっ、刷り込みじゃないよ! み、見た目は確かに、好きだけど。好きって言うか、……理想って言うか。最初の理由は一目惚れ、だけど」 「俺にいいところなんてなかったでしょ? やり目的のクズみたいな」 「そ、そんなことない! 真澄さんはずっと優しかった」 「嘘、どこが? こうちゃんは純粋だから、騙されてただけだよ」 「なんで急に自分を貶めるようなこと言うの? 俺はちゃんと知ってる!」  真澄が近づいてきた理由、人の裏表に疎い幸司にでもわかる。周りが知ったら、きっと会うことを止められていただろう理由だ。  けれど気づいてからも、幸司は真澄が好きだった。  ただ見た目が好きで、浮かれていたわけではない。それなのに彼は幸司の言葉に、息を吐くように笑った。 「こうちゃんは甘いよね」 「真澄さん! 急に突き放そうとするのやめてよ」 「俺には、眩しすぎるのかも」 「真澄さんは、最初から優しかった。俺のことを絶対に、適当には扱わなかった。ちょっと、……えっちの時は、激しかったし、強引だったのは認めるけど。そういうこと、じゃなくて、だから、その」  言いたいことがするすると出てこず、焦りが湧く。早く言わないと、真澄に手を離されそうで、幸司は頭の中で言葉を探した。  ぎゅうぎゅうと背中を抱きしめる手に力を込めて、離されまいとしながら、必死に思考を巡らす。 「こうちゃん、いいよ、もう」 「よくない! ま、真澄さんは、いつも最後に俺を抱きしめてくれた。それだけで俺は嬉しかったんだ。甘い言葉がなくたって、素っ気なくされたって、俺はずっと真澄さんが好きだった!」  出会ったばかりの頃は、甘いピロトークなんて一度もなかった。すぐに気持ちを切り替えて、帰ってしまうその後ろ姿が寂しかった。  それでも幸司はちゃんと気づいている。 「俺が意識飛ばしたあとは、いつも目が覚めるまで、抱きしめていてくれたよね。さよなら言う時も、必ず抱きしめてくれた。それがどんな意味でも、俺は真澄さんの優しさを感じたんだ」  息を飲む気配と、鼻をぐずつかせる小さな音に気づいて、幸司は必死なくらいに腕に力を込めた。
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