2人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
2
夕食を机に並べ終えたタイミングで、伊東様が帰ってきた。
「おかえりなさいませ、伊東様」
「ああ」
「夕食の準備ができております」
「うん。……俺のスマホ」
「テレビの前の机に置いておきました」
「ああ」
いつも通りの伊東様だ。当然といえば当然、今までこうだったのだ。
あのSNSを見て分かったのは、伊東様はネットでは饒舌だということ。本当は現実でも会話を楽しみたいが、緊張して何も喋れなくなるらしい。
だとすれば、今までするべきではないと思っていたが、私から話を振った方がいいのかもしれない。
「伊東様」
「ん」とスマホから無表情の顔を上げる。
「伊東様は、今まで何回女性との交際経験があるのですか」
「……え」
伊東様は表情一つ変えることなく、ただそれだけを口にして固まった。無論顔には出ていないが、困らせてしまったのかもしれない。
「不躾な質問でした、すみません」
「ああ……」
「夕食、どうぞ冷める前にお召し上がりください」
「うん……」
どうやら私は話題選びを間違ってしまったようだ。人間同士での恋愛話は盛り上がるという認識があるのだが、伊東様はあまり好きでないのかもしれない。何か他にいい話題はないか。
伊東様が食事を終え、私も食器洗いが終わると、再び会話のタイミングが訪れた。伊東様は何故かただソファにじっと座っていたので、私が声を掛けようとする。
「1人」
突然、伊東様が言った
「伊東様、何が1人なのですか」
「付き合った人数」
そう言って伊東様は勢いよく麦茶を飲んだ。相変わらず声の抑揚はないが、伊東様が2文節以上の言葉を口にしたのはこれが初めてだった。質問の答えに1時間もかかったが、勇気を振り絞ったのだろう。
「それは、いつのことですか」
私は聞きながら伊東様の隣に座った。
「大学生のとき」
「どれくらいの交際期間だっだのですか」
「1日だ」
「あまり私は恋愛に詳しくないのですが、1日は短い期間という認識でよろしいのですか」
「ああ」
「では何故1日でお別れに」
「腑抜けだと言われた」
もし昨日の私がそれを聞いていたら腑に落ちなかったことだ。だが今はあのSNSから合点がいく。伊東様はかなりのネガティブ思考なのだ。
「彼女との初デートの時……」と伊東様は話してくれた。
「デートの時に俺が少し離れて戻ってきたら、彼女が不良たちにナンパされていた」
私は黙って頷く。
「俺はその時、彼女と目が合った。彼女の所に行かないと、と頭では思った。でも俺は不良たちを見ると怖気づいて、その場から逃げ出してしまった」
伊東様はやき酒を飲むように麦茶を飲みほした。
「意外と思うだろうが、俺はこう見えてものすごく臆病で小心者だ。今だって緊張で心臓がどうにかなりそうだ」
「ですがその分、伊東様は優しいです」
伊東様が私に顔を向けた。
「いいや。優しかったら、あの時も彼女を助けられた」
「そうかもしれません。ですが、優しさの形はそれぞれです。今朝、私が間違えて定時通りに伊東様を起こしてしまったことに関して、伊東様は何もいいませんでした。それは少なくとも優しさではないのでしょうか」
私が自分のミスに気づいたのは、夕食を作っている時だった。突然、6時に私のアラームが鳴りだしたのだ。Bluetoothで接続した伊東様のスマートフォンで専用アラームを設定すると、その時刻が来たら私のアラームが作動するというもの。これがシステムの不具合なのか、午前と午後が逆になってしまった。
伊東様は今朝から気づいていたはずだが、アンドロイドの私を気遣い焦った様子をおくびにも出さなかった。だが内心慌てていたのは、スマートフォンを忘れていたことから察しがつく。
「あれは……」と伊東様は口ごもる
「なので、そこまで悲観的にならなくても良いのでは、と私は思います」
伊東様は無表情で感情を汲み取ることは難しかったが、「ありがとう」と私に言ってくれた。
「それでは、家事に戻らせていただきます」
「あ、待った」
立ち上がろうとするのを、伊東様は私の腕を掴み止めた。
「どうなさいましたか」
伊東様は無表情。だが目は真っ直ぐ私を見て離さそうとしなかった。私の腕を掴む力が、力んだり緩んだりを繰り返す。
そんな時間がしばらく続いた後、ついに伊東様は口を開いた。
「好きだ」
最初のコメントを投稿しよう!