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うちには、私のおばあちゃんと名乗るものがいる。今も私の目の前にいて、いつも見守っていると言ってくる。私のお気に入りのタンブラーだ。
持ち手が付いていてシンプルなデザインで、毎日仕事中にこのタンブラーでコーヒーを飲んでいる。そのタンブラーがある日突然、私に話しかけてきた。
「七海、久しぶりだね」
初めて話しかけられた時は、まさかタンブラーが話しているとは思わなくて、お客さんかと思って来客用出入口を見たけど、誰もいない。
「七海、ここだよ。あーそっちじゃなくてここ。ここにいるじゃないか、ほら」
近くで声がするのが分かった。私のデスクから声がしている。きっと携帯だ、知らない間に電話がかかってきたんだ。そう思って携帯を手に取ってみたけど、電話はつながっていない。
「あーもどかしいね。ここだって言ってるだろ?このコップだよ、気づかないかい?」
「え、コップって…タンブラーのこと?」
小声で呟いてタンブラーを手に取ると、明るくて聞き覚えのある声が聞こえた。
「よくぞ取ってくれた。私の声が誰か分かる?」
「おばあちゃん?」
「やっと分かったかい。そうだよ、おばあちゃんだよ。七海に会いたくなって、来てしまったよ」
おばあちゃんは確か1年前に亡くなったはず。何で亡くなったはずのおばあちゃんと話しているのか。そしてなぜおばあちゃんの声がタンブラーから聞こえているのか。
「私が死んで幽体離脱した時に、七海がすごく泣いているのが見えてね。天国からも見てたんだけど、直接顔を見て話したくなってしまったんだよ」
私が気に入って使っているタンブラーなら、手放さずに四六時中使っていることをおばあちゃんは知っていて、このタンブラーに乗り移ったらしい。
「今、この部屋には誰もいないだろ?誰かがいると話せないからね」
「うん。私以外はみんな外に出てるから。あと30分ほどしたら帰ってくるよ」
「じゃあそれまではゆっくり話せるね。元気かい、七海。お母さんもお父さんも元気にしてるかい?」
「私はとっても元気だよ。ただ…おばあちゃんが亡くなってからお母さんと大喧嘩しちゃって、仕事始める前に家を出て一人暮らししてるの。だからお母さんとお父さんが元気にしてるか、私知らなくて…」
「なんてこった。何で喧嘩したのさ」
「自分の好きなことを仕事にしたいって言ったら、反対されたの。でも私は諦められなくて、何度も許してもらえるようにお願いしたんだけど、どうしても許してもらえなかったから、子どもの夢を応援しない親なんて親じゃないって私が怒って家を出たの」
「七海もたいしたものだ。血は争えないね。あんたのお母さんがお父さんと駆け落ちしたことを知ってるかい?」
「初めて聞いた…」
「お父さんが結婚の挨拶に来た時に、手に職をつけていなくてね。養えないなら結婚は許さないって言ったら、結婚なんてめでたいことなのに祝ってくれないなんて親じゃないって言って駆け落ちしたんだよ。七海も似たようなものだね」
「でもおばあちゃんとお母さんは、仲良しだよね?家にも遊びに行ってたし、そんな風には見えなかった」
「仲直りしたんだよ。七海が生まれてから突然家に戻ってきてね。初孫だったから嬉しくて…出て行ってから数年しか経ってなかったけど、七海がいたから許せたし、前みたいに普通に会話できるようになったよ」
駆け落ちした話なんて、お母さんからもお父さんからも聞いたことがなかったし、私がお母さんとおばあちゃんの仲を戻したことも知らなかった。遺伝というものは無意識で、時には嫌な思いもするものだ。そんな所は似たくなかった。
「今、そんな所は似たくないって思っただろ?」
「え、何で分かるの…」
「天国に行ったら、人の考えてることも顔を見れば分かるようになるんだよ。全部お見通しさ。ねえ七海。お母さんと仲直りしたくない?おばあちゃんとお母さんみたいに」
「…そりゃあできるなら仲直りしたい。でも今の仕事を反対されたから、今度こそちゃんと応援してほしい」
「じゃあそれをそのままお母さんに、素直に伝えたら良いさ。それだけの話だよ」
「でもおばあちゃん、上手くいくかな…おばあちゃん?」
タンブラーから聞こえていた、おばあちゃんの声が聞こえなくなって、数秒後に営業から戻ってきた上司。久しぶりに会えた嬉しさで、30分なんてあっという間に経っていた。
おばあちゃんの言う通り、お母さんに会いに行ってみようかな。会って、自分の気持ちを素直に話したら、仲直りできるかな。
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