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一切れを淋の口に入れてあげる。淋は「うーん、おいしい!」と幸せそうな声を上げて、隣に置いてあった葡萄酒に手を伸ばした。
「舞ちゃんお酒はダメかな?」
「お、お酒? うーん、飲んだことはないかも」
「じゃあ今日試してみて。度数あんまり高くないから」
「お前、飲むのはいいけど、ほどほどにな」
「もう、分かってるって」
「ねぇー、もういっぱい、もういっぱー!」
淋が杯を掲げて叫んでいる。これは酒というよりジュースに近いものだけど、この子は体が小さいせいか、数杯飲んだだけでよくも酩酊する。
「あら、甘くておいしいねっ」とちびちび飲んでいた舞は部屋に行ったきり戻ってこない。眠ってしまったようだ。
「お前、酔ってるぞ」
「ああん? んなわけ、ないでしょ……」
淋はこちらを睨んでは、僕の膝に頭を乗せて寝転がった。なんとなく頭を撫でると、気持ちよさそうに目をつぶる。束の間の静寂を、止みかけの雨が穏やかに満たしていく。
「舞の様子はどうだ」
「まいちゃんー? ほんとーによくやってくれてるよ。あたしが言ったでしょ? 人をしんじるのも……だいじだって」
「その通りだ」
「やっぱり、あたしの目にくるいはなかったってことね!」
「…………」
君の目が狂っていたら、この世界を狂わせるまでだ。
しばらくして淋は静かに目を開けた。月のかかった夜空を眺めながら、そっと尋ねる。
「雨人って、なんであたしをつれてきたの?」
あるいは、初めて訊かれる質問だった。孤児院に行ってみて思うところがあっただろうか。
「お前が一番、可哀想なツラしてたからだよ」
「雨人がひろってくれなかったら、今ごろなにをしているんだろう、あたし」
「…………」
「じつはね……ゆめを見るんだ。――ねぇ、きいて? なんできいてくれないの! この!」
淋がパッと起き上がって全力で肩を揺らしてくる。その弾みで手に持っていた酒が零れ、手を伝って床に滴る。
「聞いてる」
「空を見上げたらさ、くも一つない青い空がひろがっててー」
「…………」
「それがとーってもきれいでさ、ずっと見上げてたいのに、あんたがあたしをひっぱってんの。でさ、あーこいつじゃまやんっておもったんだよね。ぷはは!」
何がそんなに可笑しいのか、僕の腕をバシバシと叩きながら笑い出す。
青空が綺麗だった日、か。君がそう言うなら、それでいいだろう。
「どー? おかしいでしょ?」
「馬鹿馬鹿しい」
「でもね、おんなじゆめを、なんども見るんだ」
杯をあおる。中身はほとんど残っていなかった。
「あー! めっちゃこぼしてるー! なにやってんのもう、もったいないじゃん。うわ、びしょびしょ。もう、かたづけるのはいっつもあたしなんだから!」
「すまない。……酔ってるみたいだ」
「ほら、ぬぐってあげる」
淋が雑巾を持ち上げて僕の手を拭ってくれる。腕に触れた淋の小さい手は、いつもよりも温かった。
「ホント、あたしがいないと……なんもできないんだから……」
それを最後に、淋は僕に寄りかかって静かに目を閉じた。もう雨も止んでいるし、この辺で終わりにしよう。ここで寝られたら困る。
「寝るなら部屋で寝ろ」
「う……やだー」
「さ、おんぶ」と促しても動こうとしなかったので、「じゃ、勝手にしろ。僕は寝るからな」と立ち上がると、今度は足にすがりついてきた。
「ああーいかないでー雨人ー……」
「はーなーせー」
「いーやーだー」
「えっ……」
酔っ払いと揉めているところ、後ろから舞の声がする。喧騒に目が覚めたようだ。まあ、ちょうどいい。
「お、舞。悪いけど、こいつを部屋まで運んでくれ」
「あ、はいっ。淋ちゃん、精霊師様が困ってるよ。さ、部屋に行こう? よしよし」
「うう……」
「あ、私が片付けますので、お先に休んでください」
「ああ、すまない」
淋を部屋に運ぶのを見届けて僕も席から立ち上がる。その時、ふと気になることがあった。
「舞」
「はい。なんでしょう?」
「君は……」
言いかけて、迷う。こんな問答に意味なんてないかもしれない。しかしそれでもなお、本人の口から聞いておきたかった。
「君は、幸せか」
僕の突然な問いに舞は目を瞬きさせた。そして思うところがあったのか、俯き加減になる。
「その、実はこの前……怖い夢を見たんです。親に虐待されて、愛する人に捨てられて……。ふふ、おかしいですね。私はずっと、孤児院で育ったのに……。でも、夢の最後に精霊師様が出て、こう言ってくださったんです。夢の終わりだ。現実に戻れ。そして、幸せになるんだ、って」
「…………」
「すみません、いきなり変な話しちゃって」
「いや、言ってくれてありがと」
言い終えた舞はスッキリしたように、明るい笑みを浮かべた。
「だから実は、私から伝えたかったんです。心配しないでください。私、とっても幸せです!」
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