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「ホント、いつになったら霽れるかしらね」
窓越しにしとしと霖が続いていた春分の果て。こんな日は訪れる人もなく、後回しにしていた水晶柱の清掃をこなしていると、夕食の支度をしていた淋がどんよりとした声でぼやいた。
振り向きもせず、冗談交じりに反応する。
「たまにはいいじゃないか。雨も」
「たまにって、最近雨ばっかりなんですけどっ」
淋は不満げに答え、窓際に佇んだ。棚の上から、飼い猫がのっそりと身を起こす音がする。
「雨が好きだなんて、一日中家に閉じこもってる人の発想だよね。雨の日は散歩も行けないし、洗濯も乾かないし。あーあ、少しは人の心配もしてくれたらいいのに。ねー、クロ? ――ふふ、よしよし」
今日の淋はどうやらご機嫌斜めのようだ。もう何日も井戸端に行けなかったから、きっと町の娘たちとお喋りがしたくて仕方がないだろう。
「……ごほん」
「雨人、晴れ空にすることはできないの?」
「お前は自然を何だと思っているんだ」
「ちぇー」
わざとらしい舌打ち。淋はそのまましばらく外を眺めていたが、特に興味を引くようなものは何もなかったのか、ふんと小さく鼻を鳴らし、僕のそばに腰を下ろした。
「そろそろそった方がいいんじゃない? ヒゲ」
その言葉になんとなく顎を撫でる。無精髭が指先で摘めるほど伸びていた。僕は特別な用事でもない限り、剃らない主義だ。
「髭が流行ればいいのに」
そう思っているわけでも願っているわけでもないが、髭剃りは面倒なのでとりあえずごまかしてみる。しかしというか当然というか、たちまち淋の呆れた声が降ってきた。
「流行るかそんなもん。汚ないってば!」
「……分かった。明日には剃るから」
「もう。あんた、ヒゲ生やしてるとめっちゃ老けて見えるからね」
「別に構わないけど」
「あたしが構うの! この前だって親子と勘違いされたし……」
親子。この子が17で僕が8ほど上だから、さすがに親子ほどには離れていない。けど、それがどうしたっていうんだろう。よく分からない。覚えても覚えても、世界はよく分からないことだらけだ。
「それって、何か不都合でもあるのか」
「はー? 大ありよ! だって……ああ、もう! 大体あんたは――」
コンコン
僕が自分の発言を後悔しかけた頃、誰かが玄関扉を叩いた。
「先生、いらっしゃいますか?」
「はーい」
数秒前の苛立ちはどこへやら、淋が愛想よく答えて扉を開ける。
すると世界は雨の音量を上げ、そのかすかな温もりをすぐさま打ち消した。
「こんばんは」
芝陰の馬子である久木の声。急いで来たようで息が荒い。
芝陰はここ、時杉の隣町ではあるが、間に山を挟んでいて馬車で行ってもかなり時間がかかる。はて、何の用事なんだろうか。
「こんばんは。ひどい雨ですね。大丈夫でした?」
「はい。このくらい何ともありませんよ」
「へー。あっ、服びしょびしょじゃないですか! ちょっと待ってください。タオル持ってきますから」
「いえいえ、大丈夫っす。どうせまた濡れるんで。それより――」
久木は水滴を払い、鞄の中身を取り出した。
「これ、片波家からの伝達です。先生を屋敷までお連れするようにと言い付かりました」
「えっ、片波家から……?」
和みかけた空気が熱を失う。淋は急いで封を切って手紙を読み進んだ。ほんの少し、彼女の息の乱れを感じる。
「雨人、鈴さんの様子がおかしいんだって……。数日前から目まいと腹痛があるというのにお医者さんも原因が分からない、と書いてあるよ」
「ふむ」
鈴は淋の教育係だった。去年彼女が片波家に嫁いだ時、何かあったら連絡を入れるようにと伝えてはおいたが、こうして手紙が届いたのは今回が初めてになる。
「見に行くんでしょ?」
「ああ」と拭き終えた水晶柱を杖の芯に嵌める。面倒だけど、これも仕事のうちだ。
「分かりました。すぐ支度しますので、少しお待ちください」
「はい。んじゃ、俺は外で待ちますんで」
湿った足音がそそくさと玄関を出る。おおよそ、煙草でも吸うのだろう。
「さ、早く」
淋の促しに僕は一度伸びをし、おもむろに身を起こした。
鞄を背負い、雨合羽を羽織り、杖を携えて渋々外に出る。よりによってこんな雨天に芝陰だなんて。雨の音を聞くのは好きだけど、雨の中を行くのはあまり好きではない。淋に続いて馬車に乗り込む。
「久木さん、出発してくださーい」
「はい。そんじゃ行きます」
あまり元気のない返事の後、馬車は鞭を打つ音の共にゆっくりとその身を軋ませた。
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