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毎回思うけれど、馬車は意外と居心地がいい。二人しかいない、小ぢんまりとした四角い空間。僕は余った世界を切り落とし、ただぼうっと、時間の流れを惜しむ。
「毎回思うんだけどさ、馬車って窮屈だよねー。暗いし狭いし、誰かさんはすぐ寝ちゃうし」
向かい席の淋が独り言のように呟く。今日はやけにちょっかいを出される気がする。うっすらと目を開けると、窓外の空は既に真っ黒に染まっていた。日が暮れて怖くなったか。本当、手間のかかるやつだ。
「鈴と連絡は取ってる」
「まーね。月に一度くらい」
芝陰は用事もなく行くには費用も時間もかかりすぎるので、淋は手紙のやり取りだけで満足している様子だった。鈴に随分と懐いていたから、さぞ心配しているだろう。こういう時は慰めの言葉をかけるのが適切だ。
「大したことじゃないといいね」
「うん……。そうだね」
「大したことなら、僕が解決してあげるさ」
「ぷふっ」
やがて淋は雨音を背景に鈴との思い出話をし始めた。この子は喋り出すとなかなか止まらない。誰にも相手してもらえないと飼い猫を捕まえて延々と一人話をするくらいである。
僕が彼女の話を聞き流している間、馬車は道に沿って雨の帳を裂いていった。
鈴を連れてきたのは、四年前のことだった。
すでに淋は町で友達を作るほど元気な子になっていたが、遅れた学業を補う必要があった。
彼女の性格上、家庭教師よりは友達と一緒に勉強した方が楽しんでもらえると思った。その旨を孤児院に伝えたら、「少し年上で、真面目な子がいいでしょう」と鈴を紹介してくれた。
少し情緒不安定なところがあったものの、鈴は三年間、時には姉として宿題を怠けたことを叱ったり、時には友人としてしょうもない愚痴を聞いてくれたりと、丁寧に淋の面倒を見てくれた。
「私、結婚したい人がいます」と言ってきたのは、淋がギリギリの点数で中卒検定試験に合格して間もない時のことだった。その頃はやけに鈴の外出が多くなっていたので、大方の予想はしていた。
片波家は平民だけど、その辺りではそれなりに名の知れた家だという。家業が蕎麦屋で、結構大きくやっているとか。使いで何度か鈴を芝陰に送ったことがあったが、片波家の息子とはその頃に知り合ったらしかった。
当時の僕は嫁いで幸せになった鈴が淋のいい手本になることを願い、泣きながら淋しがる淋を納得させることを条件に二人の結婚を承諾した。
揺れる馬車の中、追想とうたた寝の境を彷徨う。いつしか淋は僕に寄りかかって浅い寝息を立てていた。
薄い布越しに体温が伝わる。冷え性の僕と違って淋の体はとても暖かい。どうかこの平穏な日々を、守れますように。
「なに熟睡してんの。ほら、起きて。着いたわよ」
眠っていたはずの淋に揺り起こされる。僕もすっかり寝入ってしまったようだ。見残しの夢が、寝ぼけた世界に逆流する。そう、片波家に向かう途中だっけ。到着したのか。
僕は欠伸混じりに答え、淋の手を取った。
「あ、久木、戻ったのか。ではこちらが――」
「こんばんは。精霊師の雨人です」
片波家の提灯を持った男に挨拶する。この家の使用人だろう。
「精霊師様、遠路はるばるお疲れ様でした。こちらへどうぞ」
「失礼します」
淋がぺこりと頭を下げ、僕たちは案内されるまま家の中に入った。淋は鈴のことが心配でならないのか、柄にもなく黙って大人しく歩いていた。積もる話もあるだろう。せっかくだし、二人がお喋りできればいいのに。
ところが、あいにく鈴は眠っていた。鈴の夫から話を聞くと、数ヶ月前から次第に体が弱ってきて、近頃では色んな症状を訴えるようになったが、はっきりとした原因が見つからないという。今はただ対症療法を施しているそうだった。
「鈴さん、お腹が……」
部屋の扉を開けた淋が驚いたように声を零す。そういえば、いつか「鈴さん、妊娠したらしいよ!」と騒いでいた気がする。直接見るのは本人も初めてか。
「何ヶ月だっけ」と声を潜め尋ねる。
「えと……手紙をもらったのが寒露で今は春分だから、17、4。五ヶ月半。それに二ヶ月を足すと、七ヶ月半。そのくらいだと思うよ」
「もうそんなに経ったか」
「ホントにねー。鈴さん結婚したのが昨日みたいなのに、もうすぐ子供が生まれるだなんて。これが大事にならなければいいけど……」
結婚して身籠もる。言ってしまえばそれだけのことだけど、身近な人が母親になるというのはやはり不思議な感覚だ。いつか淋も伴侶を見つけ家庭を持つだろう。その日が待ち遠しくもあり、永遠に迎えたくないとも思ってしまう。
いや、駄目だ。今は集中しないと。首を振って雑念を払い、一度深呼吸をする。
「さ、始めるか」
「了解」
淋が手慣れた様子で人を払い、席を整え、ガタッと扉を閉める。それを合図に僕は鈴の隣に正座した。
部屋は静寂で、三人の呼吸音だけが静かに繰り返される。蝋燭の淡い匂いが鼻をかすめ、左手に持った杖の取手から水晶柱に蓄えられた力を感じる。調子はいい。全ての感覚が研ぎ澄まされている。
そう判断した僕はゆっくりと、瞼を開けた。
空間を充満する光の流動。それは木立に漂う蛍火のようで、現れては消え、浮いては沈み、集っては散り、流れては淀む。この光の名は精霊。隠世から滲み出て、現世に起きる自然現象の根源を成す存在だ。
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