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「煙草」
「……うん。ちょっと待ってね」
僕は煙草をする。といっても、年に数本しか吸わない。その薬理作用に期待するというより、自分には『煙草まで吸ったんだからストレスは減る』と思い込ませ、周囲の人々には『僕が苛立っている』ことを知らせる、一種の儀式に近い。
壁にもたれ煙草をくわえる。淋が燐寸を擦り、僕は深く、息を吸った。
「どうしたの?」
淋が吸い殻を仕舞いながらおずおずと訊いてくる。けど、こんなところで話すわけにもいかない。
「もう帰ろう」
「あのね、鈴さんに何かあったらあたしだって――」
「淋。もう……帰ろう」
幸い、雨はいつしか弱まって小降りになっていた。帰り道の馬車の中、霖の湿りだけが余った空間を満たしていた。
「お茶でも飲む?」
「頼む」
「でも、やっと雨が止んでくれたんだね」
「そうだな。長かった」
「明日の空が楽しみ」と、淋は食卓にお茶を置いた。
不幸の知らせに、良い時なんてものが存在するんだろうか。分からない。分からないなら、逡巡する理由もない。
振り返った淋の背中に向け、僕は重い口を開いた。
「鈴が浮気をした」
数秒の沈黙。盆が床に落ち、胸ぐらを掴まれる。
「は?」
「本人に確認した」
「で……?」
「妊娠した」
「浮気相手の子を……」
淋が息を呑む。
「双子のうち、一人は夫の子、もう一人は浮気相手の子だと思う。そうとしか考えられない」
稀に、女の体で二つの卵子が同時に排出されることがある。普通に受精すれば二卵性双生児になるのだが、その時偶然、体内に二人からの精子が混ざっていて、それぞれが受精したら。その場合、双子に別々の徊徃が取りつくのも納得できる。いわば、自然の誤謬。
「そんなこと……できるの?」
「可能性としては零ではない」
「もしそれがバレたら、鈴さんは……」
僕を掴んだ手が力なく離れていく。
「ね、なにか方法はないの? 鈴さんを助けてよ……」
「鈴は諦めたくないと言ったが、まあ、それしかなかろう」
「なに……? 雨人……鈴さんに言ったの? 下ろせ、って……?」
淋が唖然とする。そんなにまずいことを言ったんだろうか。僕が答えられず顔を背けると、淋は悲しそうに怒鳴りつけた。
「雨人!」
「…………」
「子供なんてまた作ればいいって思ってるでしょ! 違うのよ……! あんたから見ればまだ生まれてもない子だろうけどさ、鈴さんにとってはもう大切な家族なの。家族を諦めるわけないでしょ……!」
人の感情は難解だ。それはきっと、僕が空っぽな人間だからだ。精一杯、人の真似をしているだけの。
「でも、それ以外の方法なんて……」
しかし、それは理想に過ぎない。このまま双子を産ませるのは、それがもたらすであろう影響から考えて、最悪の手だ。
「ある」
「お前、無茶言うんじゃね――」
「きっとある!」
「…………」
「きっと、あるよ……。ね、そうでしょ……?」
裾をぎゅっと握られる。忌々しい、淋の悲しみが僕の首を絞める。僕は天井に向け今日何回目かも分からない溜め息を漏らして、そっと淋の肩を抱いた。
「ああ、きっとある。だから、泣くな」
数日後。
「ぎゃああああ――!」
家中に鳴り響く淋の叫び声にふと我に返る。顔を上げれば、部屋を横切る夕日が粛々と一日の終わりを告げている。今日も、僕はこれといった方法を見出せずに考えあぐねていた。
「うるさいぞ」
「なによその反応は!!」
思ったままの感想を口にするとバタンと扉が開かれ、入ってきた淋が息もつかずにまくし立てる。
「ねぇ聞いてよーサクラが捕まえたネズミが動かなくなってさ死んだと思って掃除しようとしたらあたしの足の間を抜けて逃げちゃったの! あーびっくりしたー」
この小さい子は、たったそれくらいのことでこんなにも騒ぐ。
「災難だったね、鼠も」
「なんだとー」
淋は怒った顔で僕の肩を揺さぶったが、机に積まれている書籍を見ては、すぐしょんぼりとした顔になった。
「こんなに調べてくれてたんだ。鈴さんのために……」
「時間が余ってな。まだ成果はない」
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