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ここは、ひなびた古い民宿【忍荘】
廊下なんて、歩くたびにギシギシ音を立て、今にも崩れるんじゃないかと思うほどだ。
「なんで、私がこんなことしなくちゃいけないの?」
「文句言わない!」
客室でベッドメイキングをする私に、女将さんが入り口で仁王立ちしながら言う。
「一応私もお客様なんですけど」
「来週には取り壊すって言うのに、あなたがどうしてもって言うから……」
オーナーが亡くなって5年、女将さんの細腕で頑張ってきたが、依る年波には勝てず廃業を決意し、とうとう来週取り壊すことを承諾したのだった。
後5日、それまでにあの人は来るのだろうか?
窓から見えるデュランタを眺めながら私は思い出に心を馳せた。
10年前、まだ高校生だった私は父とこの民宿を訪れていた。
父の好きな、濃い藤色のデュランタがあるのはこの民宿しか無かったからだ。私が高校を卒業してすぐに母と父は離婚した。なんの前触れもなくだ。
「どうだ、きれいな花だろ」
「うん、かわいい。何て花?」
「デュランタって言ってな、小さな紫の花びらが特徴なんだ」
この花は、父と母の思い出の花だということをその時聞かされた。
どんな思い出があったのかは知らないが、その時の父の寂しげな表情を今でも忘れてはいない。
「……早くして!」
女将さんの声で現実に引き戻され、私は枕をセットし、満面の笑みを女将さんへ向けた。
「出来ました!」
「まあ、良いでしょう」
細かくチェックして、「ふー」とひと息はいてから女将さんが部屋を出る。
「次は食事の準備です。急いで下さい」
「は~い」
面倒臭そうに答えて、私は女将さんの後を追った。
「私のほかに誰か泊まってるんですか?」
「何故そう思うの?」
「食事の準備とか、あの部屋のベッドメイクって、誰かのためですよね」
「……ここには私とあなたしか居ません」
嘘だ!何故か私はそう感じた。
「そんなことより、あなたの待ち人は本当にくるのかしら?」
「来ます!必ず。私、来月結婚するんです」
「それで?」
「父と約束したんです。10年後にまたここに来ようって……」
「それが明後日?」
「はい。だから必ず父は来ます」
「そんな約束覚えてるのかしら?」
「明後日、父の誕生日なんです。だから、きっと覚えてる筈です」
「だと良いけどね」
「どういう意味ですか?」
「10年前の事なんて覚えてる訳……」
語尾が曖昧になったのを、私は違和感を覚えずにはいられなかった。
「女将さんも誰か待ってるんですか?」
「……別に、私は……」
女将さんの顔が寂しげに見える。
食事の準備を終え、先ほどの部屋へ料理を運ぶ。
テーブルへ置くよう促され、ひとつひとつ丁寧に並べ終えたとき私のスマホが鳴った。母からのメールだ。
『お父さん、事故。たった今亡くなった』
瞬間、目の前が暗くなり、脚の力が抜け崩れ落ちた。
薄れ行く意識の中、デュランタの花びらが風に揺れているのを確かに見た。
(確か、花言葉はあなたを見守る)だったかな。
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