そのボタンを押すとき

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 あなたの目の前に、ひとつのボタンがある。  それはふとした拍子に現れては消え、出現と消失のサイクルを繰り返す。  押すか押さないかは、現れた時点では決めていない。あらゆる視点からボタンを眺め、吟味する。もちろん、最終的な判断はあなたに委ねられている。  あなたは、そのボタンを押しますか?      *  ──ということで被害者当人の二親等以内の親類であれば、死刑囚の死刑執行の際に「ボタン」を押すことが可能となったね。被害者側の念願であった敵討ちがやや異なった形で叶ったわけだ。  従来通りであれば複数用意されているそのボタンを複数人の刑務官が押すことで死刑が執行される。そんなことは今さら深く説明するまでもないでしょう。  そんな新制度を、死刑をもじって恣刑(しけい)と呼ばれていることも。  そして、あなたもこの度その恣刑制度を利用することになったわけだ。あなたの身に起きた悲劇は、あまりに酷な事件だった。私の口から改めて事件の概要を説明するのが憚られるくらいに。それほど残酷な仕打ちを、犯人はしたわけで。しかも犯人があなたとかなり親密な関係だったこと、それも含めて犯人は鬼畜だった。許せないね。  はてさて、なぜこんな話をすることになったんだっけ。  そう、寄生生物の話をしていたんだったね。私とあなたが話すことと言えば、一般的には声を大きくして語れないような話題ばかりだった。久しぶりに会ったから、そんなことさえ忘れてしまっていた。あなたの身に降りかかった悲劇があまりにショックすぎて……申し訳ないね。  で、どこまで話していたんだっけ。  ああ、そうだ。イングランド在住の男性の脳内に見つかった寄生虫が、宿主である彼にあらゆる障害をもたらしていたところまでは話したんだった。記憶障害に味覚障害、さらには嗅覚障害……たった一匹のか弱い寄生虫が何倍もの大きさを誇る人間相手にいくつもの障害を与えたなんて、いやはや、恐ろしすぎてまったく笑えないね。  それで今日、私があなたに話しておきたかったことは、やっぱり寄生生物にまつわる話なんだ。  トキソプラズマ。その名前くらいは耳にしたことがあるでしょう? 猫から人へ感染する、とても広く知られた感染症の原虫。あんな可愛い生き物に寄生するなんて許せないね……あ。あなたは犬派だったっけ?  まあ、それはどちらでも構わないけれど、とにかくトキソプラズマってやつも中々に厄介な寄生生物でさ。世界人口の約三割がすでにトキソプラズマに感染してるんだ。これだけでも割とショッキングな事実だけど、安心してよ。仮に感染していても、トキソプラズマ症を発症する人は稀なんだ。免疫機構が耗弱している場合に発症しやすいようだよ。お互いに、健康には気をつけようね。  それでね、面白いことに──いや、この場合にはちょっと不謹慎かな──トキソプラズマに限らず、寄生生物ってのは人をも操ることだってあるんだよ。正確にはさっき話したイングランド在住の男性みたいに、認知能力に影響を及ぼしたり、人格が少し変わったりするんだ。インフルエンザウイルスにも似たような性質があって、インフルエンザは人を社交的にするなんて話もある。逆に、今まで温厚だった人が急に冷たい人になることだってあるかもしれない。  たとえば……そうだね、あなたは煙草吸わない人だったね? でも何かしらの寄生虫があなたに寄生して数日経ったある日、あなたはふと喫煙したくなる衝動に駆られる。喫煙者の近くを歩くことすら厭うほど嫌いだったあの独特な匂いがたまらなく恋しくなって、無意識のうちに喫煙所の周囲を周回してみたり、あるいは今まで関わろうとしてこなかった職場の喫煙者の人と積極的に関わるようになったりするかもしれない。それが、寄生生物による人体への変化なんだ。まあ、これはすごく極端な例えだけどね。  でも人って自身に生じた変化が外的要因によってもたらされたとあまり疑わないんだ──当然、そこに寄生虫は含まれていないよ。なぜかって? いや、だって普通自分が寄生虫に寄生されて、脳を弄られてコントロールされてるなんて想像もしないでしょ? そもそも、想像すらしたくないね。  仮に趣味嗜好が変わったとして、それは別の要因で済ませようとするでしょう? 年齢だとか、環境的要因だとか、ストレスだとかで。寄生虫なんかよりも、そのほうがよっぽど現実的だからね。私だって同じように月並みな論理を立てて自己解決する。  ところがどっこい、人間社会と寄生生物の存在は意外にも密接な関係にあるんだ……いや、この話はまた今度にしよう。長く喋りすぎて夜が明けてしまうかもしれないから。  肝要なのは、人は知らないうちに寄生生物の支配下にあるかもしれないってことね。それだけ覚えておけば、大丈夫。  ここからが、いよいよ事の本題だ。  社会的にも重要な役割を担っている寄生生物だけど、を決して認めず、存在しないように扱っている組織があることをあなたは知っているかな?  あ、ごめん。言っておくの忘れたけど、これはあくまで私の主観的で憶測の域を出ない話だから、フィクションだと思ってよ。けど、さっき話した寄生虫の話は全部ノンフィクションだからね。  で、質問の答えだけど。  正解は、警察と検察と裁判所。  どうしてかって? 簡単な話だよ、ワトソン君。  現代社会の基盤とは何だろうって考えてみなよ。世の中の秩序を保っているのは一体何だい? なぜ全人類が人を殺したり、人から物を奪ったり、誰かの婚約者を取ったりしないと思う?  そう、法律っていう大前提のルールが存在するからだね。  じゃあ、なんでそれが警察と検察と裁判所が寄生生物を認めない話に繋がるんだって? ……ああ、ごめんね。思慮が足らなかったよ。あなたは今、とても疲弊しているんだったね。身も心も。わかった。ここからは質問なしで、私がすべて説明していくよ。  もしもの話、ゾンビが人を襲ったら、そのゾンビを現在の法律で裁けるはずないのは当然理解できると思う。なぜなら、現在の法律はゾンビを想定していないから。  それと同じことだよ。確かに、精神耗弱による刑罰の減軽だったりっていうのがあるけど、誰も寄生虫に支配されていることを想定してはいない。なのに、とある殺人事件の容疑者の頭をかち割ってみたら、脳みそから五センチ大の条虫が巣食っていましたなんて、今後の裁判が面倒な事態になっちゃう。  もうわかったでしょう?   寄生虫の存在は、現代社会の法体系の土台を破壊することになってしまうんだ。だから、そういった公的組織は寄生虫の存在前提を無視したがるんだって話。  ──ねえ、そういえば、あなたにとても酷いことをして今度死刑になる犯人。私の記憶違いでなかったら、前はとても優しくって、人を慮ることに長けてた人だったんだよね。親密だったあなたにも、自分よりあなたを優先するくらい、優しくしてくれてたんだよね? でもある時を境に、急に攻撃的な性格になってしまったって、あなた言ってたけれど。  もしかしたら、そういうことなのかもしれないね。  ……いやいや、可能性の話だよ。そんなに、真に受けないで。  うん、寄生虫ってのはやっぱり怖いね。自分の中にいないっていう保証はないし、何よりも自分の選択が果たしてだったのかも見当がつかないんだもん。確固たる意志をもって決断したはずの選択が、実は自分の意思ではなく寄生生物によるものだったなんて、冗談もいいところだ。   まあ、そんな懐疑的になってもしょうがないからね。私はあまり考えないようにするけれど。  そうだ。あなた、恣刑はいつの予定だったんだったっけ? あれ、それは口外しちゃいけない決まりだったから、私にも教えられないんだっけ。うん、大丈夫大丈夫。私はあなたの意思を尊重してるから。  でも今一度、再考してみるっていうのもいいんじゃないかな。何しろ、そのボタンを押してしまったら取り返しはつかないからね。いくら残酷なことをしたっていう事実があっても、そのボタンには人の命がかかってるから。  これを機に、普段の生活における人生の選択の連続ってのも、深く考えてみるといいかもしれないね。それが正しい決断なのかってことではなくて、本当に自分の意思なのかどうかって。      *  あなたの目の前に、ひとつのボタンがある。  それはふとした拍子に現れては消え、出現と消失のサイクルを繰り返す。  押すか押さないかは、現れた時点では決めていない。あらゆる視点からボタンを眺め、吟味する。もちろん、最終的な判断はあなたに委ねられている。  あなたは、そのボタンを押せますか?
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