夜更けのドアの向こうには

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「……先輩、奥さんの写真、あります?」 「昨日、会ったじゃん。……さっきから、何? 酔って、記憶ないの?」先輩は机の下のバッグからスマホを取り出した。「しかし、なんで飲んで遅くなると、あんな怒るかね」 「理由、聞いてないんですか?」 「聞いても『考えたら?』って言われる。わっかんねーよ。ほれ」  瀧本美織似の女の人が、スマホの向こうから笑顔で僕を見ていた。  僕は、ふいに鬼が去っていったあとの言葉を思い出した。 「……心配で、さびしいだけだって。それが怒りに変わるって。なんか……たぶん奥さんらしき……鬼……人? が、そう言ってた気がしましたけど」  先輩はスマホの奥さんに視線を落とすと、顔を軽く掻いた。 「……ふうん」そう言うと、メールを打ち始めた。  指は入力し、消去し、進み、戻り、また進み。  僕はパソコンに向き直った。仕事を始めたふりをして、独り言のふりをして、小さくつぶやいた。「鬼の呪文のほうは、一発で効くんだな」  先輩からの反応はなかった。聞こえなかったのか、聞こえていても意味がわからなかったのか、聞こえないふりをしたのか。  少しして先輩は、スマホから目を上げた。「送信、と」  そして、パソコンを立ち上げながら、決然、という口調で言った。 「今日は、定時に帰らせていただく。可能なら」 「やっぱりプレゼン資料、半分やりますよ。タクシー代も、こっちも、じゃ申し訳ないです」 「そお? サンキュ」  僕はパソコンの画面を見たまま、さっきより少し大きな独り言を言った。 「……禁断の呪文、まあ、失敗だったけど、かっこよかったです」 「あ……」先輩が何か言いかけた。パソコンの起動音がそれを遮った。「……さて、定時退社」  あとは僕も先輩も、黙って仕事に取り掛かった。
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