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駅をいくつか過ぎ、人気のない通りを過ぎ、同じ造りの団地の、同じ扉の並んだ通路の、可愛くKANOUと表札のある前で先輩は立ち止まった。「ここ」
すぐには入らず、扉の前で腕を組んだ。
「怒ってるだろうなあ」
「奥さんの怒りの沸点低いですか」
「普段は低くない。でも一度怒ると……うん」
「結婚してどれくらいですか」
「一年ちょい」
「一番良いときじゃないですか」
「一番良い時期でもあり、ほつれ始める時期でもある」
先輩は僕に向き直ると、両肩に手をかけて言った。
「じゃあ、ドアを開ける。かみさんが怒ってなかったら、どうもーとか言って帰れ」
「わかりました」
「かみさんが怒ってたら……本気で怒ってたら」先輩は一度言葉を切ると、覚悟はいいか、とでも言うように僕の目をじっと見た。
「お前は右によける。俺は左に飛び退く。いくら鬼になっていても、俺のかみさんだ。剣は使いたくない。呪文で動きを封じ込める」
「はい?」
聞き間違い、かな。
「聞こえただろ。右によける」
「えーと。鬼嫁?」
「鬼。右によける」
「呪文って?」
「わかったか」
「全然」
「こうしていても時間の無駄だ。行くぞ」
「加納さん、だいぶ酔ってます?」
僕の言葉を無視して、先輩は厳かに言った。
「よし、開ける」
重たい鉄の扉がぎい、と音を立てた。
部屋の中は、照明が点いていないようだ。暗いもやに覆われているような薄暗さが広がっている。僕たちの後ろで、またぎい、と音を立てて扉は閉じた。
「暗い……ですね」
「しっ」
突然、遠くの方にぽっと青白い光が見えた。
その瞬間、先輩が僕を突き飛ばした。
青白い光は、走る火の玉となって飛んでくると、僕と先輩の頭の上、鉄の扉に轟音を立ててぶつかって、じゅう、と消えた。
「右によけろって、言ったろ!」
「せせせせんぱい」
「さっきの呪文を言え」
先輩が僕のからだから、さっと身を起こしながら言った。
「じゅじゅじゅもん」
「盛り上がって、の呪文だよ」
「じゅじゅ」
「先輩引き留めて、の呪文だよ」
僕は、か細く震える声で、青白い光が見えた方へ向かって言った。
「ああ……先輩引き留めて……盛り上がって……すみません」
どす。奥の方から鈍い音がした。
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