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「……効いたか?」先輩がつぶやいた。
どす。
どすん。
明らかに、奥さんではない何かが、近づいてくる。
僕は、手に触れるごつごつ、ざらざら、とした感触に気が付いた。
暗さに慣れた目が、ここは団地の部屋ではないことを教えてくれた。
洞窟、のような。坑道、のような。
電気の照明の代わりに、岩壁にはぽつりぽつりと松明が燃え、辺りをぼんやりと浮かびあがらせている。
どす。
どす。
地鳴りのような足音が止み、低くしわがれた声がした。
「見え透いた嘘よの」
松明の灯に浮かび上がったのは、身の丈2メートル半越えの。
しゅうしゅうと口から絶えず白い煙を吐き。
赤く、鋭く光る眼。
両手の先から伸びる、大鎌のような爪。
巨大な角。ぼうぼうと燃えるようにうねる髪。暗い青の、顔。
「……」僕は息を呑んだ。
鬼嫁……じゃない。鬼、だ。
「ちっ、一つ目の攻撃、失敗」先輩がまたつぶやいた。「仕方ない、次だ」
先輩は胸ポケットからボールペンを取り出すと、鬼に向けた。
「明日、パティスリー・ドゥのタルト買ってくるから!」
ペンの先から細い閃光が、鬼めがけて放たれる。
鬼の掌から青白い炎がほとばしって、それを打ち砕いた。ふたつの光の爆発が、マグネシウムが燃えたように辺りを一瞬明るく照らした。
「甘いもの食わせりゃ機嫌直るってか。お前はこれでも食らえ」
鬼の掌に再び青白い光がたまる。鬼が掌を押し出すと、最初の一撃よりもさらに大きく、まばゆい光を放つ炎が宙を切り裂くように向かってきた。
「うああああ」大声を上げながら、僕は手前、先輩は少し離れた岩陰へ転がるように飛び込んだ。
炎は先輩が隠れた岩に激突すると、その表面を発破のように砕いて消えた。
「加納さん、逆効果です! 攻撃力、増してます!」
「まだ、呪文は残ってる!」小さくなった岩陰から、先輩が隙を見てペン先を鬼に向ける。
鬼も、さらに大きな火の玉を掌にためる。
「今度の週末、イタリアン行く?」
「この間もそう言って、いざ当日になったら『今日は餃子の気分』って言ったのはその口か」
「前から欲しがってたマリカーのソフト」
「とっくに自分で買ったわ」
「土日、家事全部やっから」
「普段からやるんだよ。共働きだろうが」
先輩が放った閃光を、鬼の炎がなぎ払う。
「加納さん、呪文全部はじき返されてますよお!」
死ぬんだ。先輩と、ここで。
僕の心を読んだように、鬼がしゃがれ声で言った。
「そっちのお前は……無関係。殺さない」
「……良かった。加納さん、頑張ってください」
必死に他の呪文を思い出そうとするように、口に指を当ててせわしなく動かしていた先輩が僕に大声を出した。
「薄情者! お前も攻撃しろ!」
どす。
どすん。
鬼がゆっくり近づいてくる。
「えー、どうやって?」
取りあえず自分の身の安全が保証された僕は、のんびり答えた。
「こういうとき使う呪文のひとつくらい、知ってるだろ!」
「知りませんって」
先輩は自分の頭を指さすと、僕に語りかけるように言った。「いいか、お前のここにはないが」次に胸を指さした。「ここには、あるんだ。俺を、助けてくれ」
「加納さん……」
仕事で分からないことがあったとき、いつも優しく教えてくれる先輩。自分が缶コーヒー買ってくるとき、たまに僕の分も買ってきてくれる先輩。何がいい? って聞かれてジョージアのエメラルドマウンテンって言ったら毎回それにしてくれる先輩。あるとき、BOSSもおいしいですよね、って言ったら、少し困った顔をしてジョージア→BOSS→ジョージア……のルーティンをつくってくれた先輩。ランチ、何食う? って聞かれて、先輩は何がいいですか、って聞いたらなんでもいいよっていうから、蕎麦って答えたら、今日は蕎麦じゃねえなあ、って答えた先輩。ちょっとボールペン貸してって言って、ほぼ80%は自分のものにしてしまう先輩。ひそひそ声で「おい、誰にも言うなよ。ここだけの話、経理の小田と人事の山崎、付き合ってるって」って、みんなもうとっくに知ってるっていうか本人たちだって別に隠してないことを、国家の陰謀を暴露したみたいな口調で言ってきた先輩。
なんか、いろいろ可哀想すぎる。
死なせるもんか。
僕は必死に頭の中を引っ掻き回した。
「あ、あった!」
「言え!」
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