第二話[四月]

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第二話[四月]

新居に入居し、半月も経つと所狭しと並べられていた段ボール箱も徐々に徐々にと片付けられていった 仕事を辞め、今は家事のみに従事している景子にとっては、朝、和彦が出勤してから夕方迄、昼の時間がこれ程までに、驚くほど長いものだったんだなと感じ始めていた 朝、和彦が出ていった後のこの家の中は、シーンと静まり返り、自分自身の物音と、自分が動かしている家電の音しかしない そして、四方に阻まれた壁の外から聞こえる遠くか細く聞こえてくる世間の賑やかさ 一人、この広い家の中で家事をしていると 何処か無人島にでもポツリと一人取り残された人間の様な、そんな孤独感に苛ふと(さいな)まれる時があった 景子はテレビを見る訳でもなく付け、 少しずつ、少しずつ自分のお腹が何となく重くなるのを実感ながら、あまり無理はしない程度に、積み上げられた段ボール箱を順番に整理していく事にした ふと、庭に目をやる 此処に来る前に業者に頼んで、あたり一面に生い茂っていた雑草を除草作業してもらった他はまだ一切手入れをしていなかった もう既に新しい緑が庭をまだら模様にし始めている、これが、梅雨、そして夏を迎えるとかなり生い茂ってくる事になるんだろうなぁ などと景子は思いながら、小さなため息をついた そして、今はまだガーデニングなんて出来る状況では無いな、とも、考えた 庭の捩れた桜の木にも、まだ所々ではあるが桜の花びらが残っていた 何故か不思議な事に、この木には殆ど葉が付いていなかった、そのせいで桜の残った花がとてもよく目立つ、気のせいなのか、元からだったのか、今となっては分からないが、桜の花の色が、薄紅色というかんじではなく、かなり赤ずんで見えている、それが捩れた枝にポツポツと残り、それが、項垂(うなだ)れている様に見えて、少し淋しい感じをさせた 桜の木の下には、業者さんが気を利かせたのだろうか、それとも面倒臭くて手を抜いたのだろうか、葉が真っ直ぐな、菖蒲だろうか、水仙だろうか緑の凛とした植物が桜の木の周囲をグルリと覆っている まぁ、良い、あの花が何なのか知る事もこの先の楽しみにしよう その季節になれば、あの草も、蕾を付け、いずれ花が咲く時が来るであろう 景子はそう思いながらも、改めて思い直し、段ボール箱の片付けを進めた 今日の午後は産婦人科の検診の予定が入っている、この塀に囲まれた孤独な無人島から、脱出して、やっとの事で久し振りに文明人と会う 景子はそんなイメージを頭の中で思い浮かべて一人苦笑してしまっていた 「経過は良好ですよ」 産婦人科の医師は景子の診察をした後にそう言った 「どうですか?深山さん、此方に越してきてストレスとかは有りませんか?お子さんにとっては母体のストレスが一番良くありませんから、心配事とかありましたら、直ぐに言って下さいね」 「はい、今のところ大丈夫です、ストレスも有りません」 「そうですか、では、また二週間後に此方に来て下さい」 「分かりました、ありがとうございます」 景子はそう挨拶して産婦人科を後にした 産婦人科からの帰り道、駅の商店街を歩いて買い物をした 幸い、此処の立地は買い物にはとても便利な環境なのだなと感じた、家から数分も歩けば駅へ続く商店街へ通じ、生活に必要な物はほぼ全てを揃える事が出来た、駅前まで行けば、オシャレな店も立ち並び、駅ビルに入れば最新のファッションテナントも充実していた 景子は、今日はわざと、ブラブラと商店街を遠回りし、その一軒一軒を眺めながら歩いてみる事にした 小さな、昔ながらのレトロな感じの喫茶店、街の、これも昔からある様な、今時の上品な品揃えなど絶対に無い様なケーキ屋さん、対象年齢が相当お年寄り向きなのではないかと思われる様な、それでも『ブティック』と看板に書いてある洋品店、今時ではもう珍しいクルクルと回るサインポールのある理髪店、プラモデルやら、モデルガンやら、Nゲージなどが所狭しと積み並んでいるが、逆に、ゲームソフトなどの品揃えが一向に見当たらない様な玩具屋さん、定食屋さん、街の中華屋さん…ブラブラと歩いていると、まるで違う時代にタイムスリップしてしまった様な錯覚に陥る (此処に住んで良かったのかも知れない) この時、景子はそう思っていた ただ、元々が古い下町なので、駅からの数分も離れると、下町風の小さな飲み屋街が軒を並べ続いていて、多分其処は、夜になると酔っぱらった人達がこの周辺を彷徨い練り歩く事になるだろう、今はそんな所とは縁が無い景子には、夜に、この周辺に近づく事はよしておこう、そう心の中に留めた 駅近くの大手のスーパーマーケットで夕食の買い物をしていると、新居にやって来た時にご近所の挨拶回りに行った所で、お会いした覚えのある奥様の顔が見えた、確か名前を笹崎さんと言った筈だった 「こんにちは」 景子は奥様の顔を見てそう言った 「あら、えーと、貴女は、こないだウチに挨拶にみえられた…」 「深山です」 「そうそう、深山さん、新居の居心地はどう? 随分見違えて綺麗になさったのね」 「ええ、快適です、お陰様で」 「うちの犬、夜うるさく無いかしら?ご近所迷惑になってなきゃ良いんだけど?」 「ええ、大丈夫です、夜も一帯があまりにも静かなもので、逆に寂しくなっちゃうくらいなので」 と言って景子は笑って見せた 笹崎さんのお宅は、景子が家に行く時に通る細い私道の左側の家だった、其処には黒色の雑種と見られる中型犬がいて、景子達が転居の挨拶に行った時もかなりな感じで吠えられて、笹崎さんのお宅の中に入るのにもかなり苦労した、また、庭で放し飼いにされているので、景子がその私道を通って家に入る時も正直言うとよく吠えられていた、だが、今はそんな事はとても言える筈が無い、逆に考えてみれば、これだけよく吠える犬なのだから、もし、誰かがあの細い私道を通れば、良く吠えてくれて、防犯の代わりになってくれるかも知れない 景子は、とりあえずポジティブにそう思う事にしている 「それは良かったわ、前の人の時はウチの犬がかなり嫌われていたから、私、随分心配だったのよ」 笹崎婦人はそう言って微笑んだ 「前の人は、随分お歳を召した方だったみたいですね?」 「そう、独り暮らしの方でね、お子さんとかも居なかったみたいだから、今、思うと、随分寂しかったのでは無いのかしらね、でも、あの頃はなかなかそう思う事が出来なくて…」 「と、言うと、どういう事ですか?」 「その人、須賀さんと言ったのだけど、周り近所の人とあまり上手くやれてなかったのよね ウチも、犬の事で散々怒鳴り込まれた事がよくあったのだけど、そのお隣の片山さんなんかは、お子さんがその頃丁度お年頃だったものだから、家から聞こえてくる音楽がうるさい! なんて言って、良く喧嘩なさってたわ、それでご近所中にそんな感じで色々文句を言うものだから、その内に誰もお付き合いしなくなっちゃったのよね… 結局、最後は寝たきりになっちゃったんだだろうけど、今までの事があったから、その頃には誰も気にする人達が居なくなっちゃっててね、だから、自治体の訪問介護の人が訪ねて来なければ、あそこでそのまま孤独死していたかも知れなかったのよね あら、嫌だ、何か私、余計な事言っちゃったかしら? あまり、お気になさらないでね、ホホホ…」 「そうだったんですね、いえ、前に住んでいた方の事を私達、あまり良く知らされて無かったので…逆に、いろいろ教えて下さってありがとうございます」 「今、快適ならホント、良かったわ、では、また、ごめんあそばし」 と言いながら軽く会釈して去って行った 景子は、あの不動産屋が言っていた事もほぼ間違い無かった様だ、とりあえず、今の家が実は曰(いわ)く付きだった、という事は無さそうで、少しホッとした 「ただいまー」 夜、10時過ぎになって和彦が帰ってきた 夕方、今日は遅くなるとLINEで連絡があった 「ただいまー、おっ?何か良い匂いだな」 ネクタイを解しながら和彦はキッチンに立つ景子の横に並び、鍋の中を覗き込んだ 和彦は何やら上機嫌な様子に見えた 「おかえり、今日は遅かったのね、今シチューを温め直しているから」 「うん、美味そうだ、俺、先に風呂入っちゃって良いかな⁈、今日、仕事で汚れちゃってさ」 「じゃあ、風呂沸かし直さなきゃ」 「いや、シャワーで良いよ、ちょと先に入って来るわ」 そう言って和彦は風呂場へ歩いて行った 和彦は風呂から手早くシャワーを済ませ、出て来ると、パジャマに着替えて、リビングのテーブルに座った 景子は和彦にシチューを出し 「ご飯で良い?パンもあるけど? あのね、商店街の通りでね、美味しそうなパン屋さん見つけちゃって…」 「いや、パンもご飯も要らない、シチューだけで良いや、明日も早いし」 和彦は少しぶっきらぼうに取れる感じでそう言うと、冷蔵庫に行って自らビールを取り出してプシュッと開けた 「そう言えば、今日ね、スーパーで、ウチの左側に住んでる笹崎さんに会ったの、あのよく吠える犬の居る」 「ああ」 和彦がグビグビとビールで喉を潤しながら言った 「そこで、此処に前に住んでいた人の事、聞いちゃったよ、やっぱり不動産屋さんが言っていた通り、住んでいたのは独り暮らしのおじいちゃんだって でもね、その人、近所では結構嫌われていた人みたいで、周りの人達に良く苦情とか言っていた事があったみたい そういう事があったから、近所の人とはあまりお付き合い無くなっちゃったみたいなのよね それで最後は、寝たきりになっちゃったそうなんだけど、それを自治体の訪問介護の人が見つけて、結局、救急車で運ばれるって事になったらしいの」 「ふーん」 和彦はバクバクとシチューを口の中に入れていた 「でも良かったよね、最初心配したみたいに、事故物件とかじゃ無くて、あの不動産屋さんが言ってた事も、嘘じゃなかったみたいで」 「ああ、ご馳走さん 俺、ちょと、部屋行って仕事のメール打ってくるわ、明日また朝早いから、それ終わったら寝るね じゃあ、お休み」 そう言うと、和彦は椅子から立ち上がり、リビングをパタパタと出て行った パタン… リビングの扉が閉まって、洗面台に行って歯でも磨いているのだろうか?その扉の外からカチャカチャと何やら小さい音が聞こえている 扉が閉まったそのリビングは再びシーンと静まり返っている (疲れているのかしら?) 今日、景子が話をした人は、産婦人科のお医者さんと、スーパーで会った笹崎さんの奥さんだけだった、 和彦とは、朝は慌ただしく出て行ってものだから、会話らしい会話は殆どしていない 今、やっと帰って来て、出来る事ならもっと、今日あった出来事だとか、和彦の仕事の事だとか、いや、そんな会話の内容なんかはどうでも良い、とにかく、取り留めのない事でも何でも良い、もっと色々話をしていたかった 景子はえも言えぬ寂しさを心の奥に感じた これもしょうがない事なのだろうか? 家で専業主婦をやっている人達の日常って普段ずっとこんな感じのものなのかしら? 景子は急に、お腹の重みを今まで以上にズシリと感じた 『お子さんにとって母体のストレスが一番良くありませんから』 昼間、産婦人科の医師から聞いた言葉が繰り返して思い出された ツキーン 景子はお腹の辺りに、痛みとも、重みとも説明の出来ないあまり心地の良くない感覚を覚えた 『ウォゥウォゥーン』 シーンとした夜の闇の中で犬の遠吠えている声が聞こえた 多分、あの笹崎さんの所の犬が吠えた声なのだろう リビングから漏れる出る明かりに照らされて 庭の片隅に佇む身の細い捩れた桜の木の、まだ辛うじてこびりついた様にして残っている外の桜の木の花が、あたかもライトアップされた様に浮かび上がっていた その色は昼間見るよりも一層紅く、いや、夜のこの白い明かりの中では鮮やかな程に赤黒く、その木の先で、何か物哀しそうに、未練ありそうに、項垂(うなだ)れ、こびりついてるのが窓の外に見えていた
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