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第三話[五月]
窓から穏やかな陽光が差し込んでいた
外からは鳥の囀りが聞こえてくる
景子はベッドの布団の中から窓の外を眺めていた
頭にズンとした重みを感じている
何か頭に重りか何かを巻かれている気分で、ベッドから起きようと思っても起き上がる事が出来ないでいた
昨日から気持ちが悪くて何も口にしていないのに吐き気がずっと続いている
胃袋から酸っぱいものが込み上げてくる
先日行った産婦人科の医師からは
「それはつわりですね」
と伝えられた
話には聞いていたが、これ程辛い物だとは景子は予想もしていなかった
頭痛、吐き気、気だるさ…
それに加えて、普段全く気にしない様な匂いが気持ち悪く感じた
一番酷かったのはご飯が炊けた時の匂いだった
炊飯器のスイッチを入れ、ご飯が炊き上がって来て、炊飯器から蒸気が立ち登り始めると、もう気持ち悪過ぎてその場に居られなくなる
和彦には事情を説明して、ここ数日は買ってきた弁当か、出来合いの惣菜か、パンにしてもらっている
今日の朝も、景子は、朝起きる事がどうしても出来ず、和彦は昨日の内に買ってきておいた惣菜パンで朝食を済ませ、家を出て行った
「今日の夜も辛いだろ、良いよ、俺、飯は外で済ませてくるから」
出掛けに和彦はそう言ってくれた
ありがたい言葉であったが、ここの所、ずっと和彦と殆ど会話らしい会話をしていない
仕事の方が忙しいのだろうか、和彦は、最近、夜帰るのが遅い事が度々あるし、珍しく早く帰って来ても、飯、風呂、そして、テレビを見ているか、スマートフォンを持って自分の部屋にスッと引き籠ってしまう
つわりが始まる前、その辺りからそんな感じだった
そんな和彦の態度に、最初は時折、不安で、寂しい気持ちでいたのだが、つわりが始まり出すと、景子はその気持ちがどうしようもないイライラに変わって来ている事に自ら気が付いていた
(もっと気にかけてくれても良い筈)
(昔からあんな性格だったのだろうか?)
産婦人科の医師に聞けば
「つわりの時期は皆んなそんな物ですよ
些細な事でもイライラしたりしますから
そんな時は無理をしないでつわりの期間が落ち着くのを待ちましょう」
と言われていた
そんな事を考えながら、景子はベッドの中から天井をぼんやりと見上げてた
(あ、あんな所にシミが有る)
此処に来る時に、業者さんに依頼して部屋の内装を頼んでいたので、壁紙や外壁までは、綺麗にしてもらったのだか、天井は全く手を付けずにそのままにしてあった
以前に、雨漏りでもした事があるのだろうか、寝室の天井の隅の方に茶色の輪じみが有る事に気がついた
景子はズンと重い頭の中で、ぼんやりとその輪じみを眺めていた
すると、その輪じみが、最初はウネウネと動く様に見え、それがずっと見ている内に、次第に段々と大きく、最終的には、グネグネと波打っている様に見えた
「ウッ」
また胃の奥から酸っぱい物が込み上げて来たのを感じたので、その天井のシミから目を逸らし、布団を被った
窓の外から、これから学校へ行くのであろう
子供達の賑やかな声が遠くから聞こえて来る
景子は布団の中からその声を聞き、布団を頭まですっぽりと被り直して、その目を閉じた
景子が再び目を覚まして時計を見ると、もうその短針は、午後の時刻を指していた
日差しも、もう随分高くに上がっている
朝、聞こえていた鳥の囀りも、子供達の元気な声ももう聞こえない
(起きなきゃ…)
景子は気だるそうに、モソモソと布団を剥がし、階段をゆっくりと降りて行って、リビングの扉を開けた
リビングのカーテンは昨日のまま閉じていたのでリビングは薄暗かった
キッチンのシンクの中には、昨日、和彦が使ったであろうグラスが置いてあって、ビールの空き缶が二つ転がっている、キッチンにあるゴミ箱には、コンビニの袋の中に、弁当の容器やら、割り箸やらが入って捨てられていた
(ちゃんと分別してよね!此処、ゴミの分別には皆んなうるさいんだから!)
来た当初から和彦にはそう言ってはあるが、そんな事は全く守られていなかった
何時迄も会社の独身寮に住んでいる気持ちでいるらしい
そんな事を考えると、また景子の頭の中がズーンと重くなってきたので、怒る気持ちすらすっかりと消え失せ、景子は、ハア と一回息を吐き、気だるそうにしながら、コンビニの袋を開け、そのゴミをそれぞれの指定ゴミ袋に分け始めた
その作業を、何とか終えると、景子はリビングのカーテンを開け、ベランダのサッシ窓を開けた
サアッと心地良い風が室内に吹き込んで来て
室内の澱んだ空気を入れ替えてくれた
景子はその風を頬に感じながら、一度大きく深呼吸をして縁側に出ると、庭をグルリと見渡した
今では、庭一面に緑が生い茂り、もう、かなりな高さにまでなっている、このまま夏を迎えれば、もうこの庭も雑草が一面を占拠する事になるのであろう、和彦はこの庭に関しては一切気にならない様子だし、だからと言って、今の景子にはとてもこの庭を何かしようなんて気持ちは全然湧いてこなかった
庭の隅にある桜の木は、花はもう全て落ち切ったが、相変わらず何故だか、葉は殆ど付かず、今は枯れ枝の様になってその頭を垂れ下げている
桜の木の周りにある緑の細い葉の植物は、相変わらず緑のまま、凛として生い茂っているが、いまだに、その茎やら、蕾やらは付けていなかった、どうやら菖蒲ではない様だ、菖蒲であるのならば、この時期になればもう紫の花を咲かせている筈だった
今まで気が付かなかったが、桜の木に対して庭の丁度反対側、左の、玄関に近いその隅には緑の、青々とした今一番元気良く、大きな葉を付けた植物が植っていた
あれは、植物にあまり詳しくない景子にも直ぐに分かった、紫陽花だった
もう直ぐ梅雨の季節か…
どんよりと薄暗くシトシトと何時迄も降り続く雨の季節…
それを想像して、景子の気分は、またどんよりと暗くなった
逆に、それを待ち望んでいるかの様にこの庭で育つ紫陽花達は、この暖かい日差しの中で、その葉を大きく広げ、その季節の到来を待ち望んでいる様だった
最近、何故か、一人で居て、いろいろ一人で考える事が多くなっている様な気がしていた、
結婚し、夫婦二人の生活ともなれば、景子が独身でいた時よりも、もっと賑やかに、沢山とお喋りしながら過ごす時が多くなるのだろうな
ともすれば、逆に、一人っきりになれる時間が欲しくてどうしようもない、
景子は当初、勝手にその様に、結婚生活を思い描いていた
ところが、今、現実に景子の置かれている立場は、それとは全く逆の様に思えた
そういえば今年のゴールデンウィーク中も、和彦と家で一緒にいれた日が、3日程だったな
まぁそれも景子がやはり具合がよろしく無い事が多かったから、特別に何かをしたという様な日は無かったけれど…
当初の予定では、景子は此処に越して来て初めて和彦と一緒に実家に帰るつもりでいたのだが、ゴールデンウィーク間近になると、景子のつわりの具合が段々と酷くなっていったものだから、これはとても行けそうに無いという事で、その話はキャンセルとなった
その代わりに、出かけるにしても近場で二人でゆっくり過ごそうという話になったのだが、実際、ゴールデンウィークに入ると、和彦は何かに付けて理由を述べ、丸一日中家にいる事は、殆ど無かった、その中でも一日は、どうしても断りきれない同僚とのバーベキューが有るんだと言って朝早くから出掛け、おまけに、その日の夜は飲み過ぎて帰れないと電話連絡が有り、誰かの家に泊まったみたいで、やっと帰って来たのが、次の日の夕方だったという時まであった
流石にその時ばかりは、和彦は、景子に対して後ろめたい気持ちがあったのか、帰るなりすぐに素直に、ゴメンと言って謝って来たのだが、だからといって、その次の日から、それを穴埋めして信頼を挽回しようなどと言った雰囲気は全くをもって無かった
そんな感じで、あっという間のゴールデンウィークは終了し、それからは、朝、慌ただしく和彦は会社に出掛け、夜、しばしばと遅くなって帰って来るのを、景子は一人、この静かな家の中で待つ、といった日常が繰り返される日々に戻っていった
景子はベランダに立ち、庭の景色を眺めながら、ぼんやりとそんな事を考えたりしていると、
『ブーブーブー』
と、リビングのテーブルに置いてあった景子のスマートフォンが震え、ピロンと遅れてメールの着信音が鳴り、誰かからのメッセージを受け取った事を知らせた
景子は、リビングに戻り、スマートフォンを取って画面を開くと、和彦からのLINEメッセージだった
『今日、帰り遅くなる、飯も大丈夫』
(はぁ…まただ)
五月のゴールデンウィークが終わり、日常が普段通りに戻ると、和彦は此処の所、度々この様に、同じ様なメールを送って来る事が多くなって来ていた
これはもう所謂、倦怠期と言うやつなのかな?
景子は、和彦と結婚する前、名古屋にいて、まだお付き合いを始めたばかりの、頻繁にデートを繰り返していた楽しい時の事を思い返して
(和彦はその時、そんなに会社の仕事で忙しくしていたかしら?)
と考えた
だが、それとも、もしかしたら、支店から本社の勤務になって仕事の質や、量が変わったのかも知れない、とも考えたが、
今の景子の重い頭の中では、その事を良く考えようとしてみても、全然考えがまとまらなかったので止めた
「ねえ、庭の雑草、そろそろ除草しておいた方が良いと思うんだけど、和彦どう思う?」
「ん?ああ、でも、今取っても直ぐ梅雨になって、また直ぐに草生えて来ちゃうぜ⁈
梅雨が明けてからで良いんじゃない?」
五月下旬の日曜日の午後、景子のつわりの方もようやく収まりつつあるのか、たまに気分が悪くならない日も出てくる様になっていた
景子にとって今日は、そんな日であったし、和彦は、日曜日に珍しく、何処に出掛ける訳でも無く、リビングでくつろいでいた
最近の中では、二人にとって珍しい休日風景でもあった
此処の所、和彦は日曜日であっても、何かしらの理由を付けては、何処かに出掛けたりしていて、一日中家の中ににいるという事があまり無かった
だから、景子は、今日は何か特別に気分が良くなり、鼻歌混じりにキッチンに立ち、お湯を沸かしながら、和彦に話しかけていたのだった
「でも、そろそろ雑草の丈も高くなって来たし、なんか気になっちゃって」
「…なぁ、それ、俺にやれって言ってんの?」
「そうじゃ無いよ、そ・う・だ・ん
あまり、この家に人が来る事ってそんなには多くは無いけど、草が生えっぱなしじゃ、なんか見栄えとか良くないじゃん、和彦の両親が此処に来た時とかさ」
「それ、やっぱり、俺にやれって言ってるよね⁈
景子は、そんな身体だから、手伝える訳も無いだろうし、そしたら、他に誰がやる⁈
『オ・レ』
しか、居ないよね?」
和彦が、リビングのソファの背もたれに両手を掛けながら、首だけを振り向かせて、キッチンで紅茶を入れようとしていた景子の方を斜め見た
「……」
景子は思わず言葉が詰まってしまった
そんなつもりで、言った訳では無いのに
和彦と折角、休日にこうやってゆっくりと話が出来たから、ちょっとした会話のつもりで話掛けただけだったのに…
「俺、ちょっと出掛けて来るわ」
和彦はそう言うと、ソファからムクッと立ち上がり、着替えをする為にリビングから去って出て行った
リビングの扉が
パタン
と閉まる
そのリビングでは、和彦が付けっぱなしにしたまんまのテレビの画面から、景子には、よく名前の知らないお笑い芸人が、こちら側に向かって戯(おど)けて見せている、テレビの中から、わざとらしい予め録音された演出用の笑い声がワハハハ…と聞こえて来ている
「うっ…」
お腹の辺りが、ツッキーンと、また痛くなり始め、胃の中からまた酸っぱい物が込み上げてきて、思わず景子はその場に蹲(うずくま)った
庭の片隅の紫陽花が今日も、日の光を一身で受け止めており、その緑の大きなその葉は、全身を広げ風の中でサワサワサワと揺れ続けていた
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