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第四話[六月]
景子のつわりは徐々に収まりつつあった
少しづつ身体が無理無く動ける日が出て来る様になってきていた
今朝は、いつもよりも、少しだけ気分がすぐれていた
この日、景子は少しずつ重くなってきたお腹を意識しながら腰をかがめ、景子の膝の下の高さにまでなった雑草を刈り取る事にした
和彦には、この間の一件以来、庭の事はもう話さない様にしていた
和彦の夜遅くになっての帰宅の日は、相変わらず多くなっていた
(今日もまた帰りは遅いのだろうか…)
景子はそんな事を考え、モソモソと、庭の雑草をむしっていると、庭の、家の雨樋に近い場所に黒いコロコロとした物が、積もり塊となって落ちているのが目に留まった
何だろう?と思い、景子がそれに近づくと、どうやらそれは、動物の糞の様であった
この近所は下町のせいか、やたらと野良猫が多い、恐らくそれも野良猫の糞なのであろう
景子はそう思い、庭の手入れの為に用意していた園芸用の小さなスコップで、庭の隅に丸く穴を掘り、その糞をスコップで土ごと拾うと、その穴の中に埋めた
ふと、その場所から、緑の雑草の隙間から何か白い物が有るのが見えた
何だろう?と思って良く近づいて見ると、それは骨で、魚の死骸の様であった
骨の周辺にはまだ肉がこびりついており、その死肉の匂いを嗅ぎつけた何匹かの蠅が、その骨の周囲を飛び回っていた
「やだ…」
景子は思わず顔を顰(しか)めて、退いた
だが、やがて決心をすると、恐る恐るその骨をスコップで拾い、持ち上げた
景子の鼻に、その死臭が届いて来た
「うっ!」
景子は、そのスコップを持つ右手と反対の左の腕で自分の鼻を覆い、その匂いの襲来から防御をすると、先程、動物の糞を埋めたその穴に、その死骸も埋めようとして立ち上がった、と、
ポトリ
身体を立ち上げた時の振動で、その死骸は、スコップから傾き、揺れ出て、景子の足元に落ちてしまった
景子は、もう一度身を屈め、それをスコップで拾おうとした
その強烈な死臭に誘われて来た蠅達が、まだ数匹、その白い骸の周辺を飛び交っている
ポトリと落ちたその骸は、無数に並んだ歯の有るその口をパクンと開かせ、その落ち窪んで空虚なその目は、空を見据えていた
と、その落ち窪んだ目の周りが、景子には何かモゾモゾと動いている様に感じた
「⁈」
とても小さく、白い、ウネウネとした無数の蛆虫達が、その目の周囲にこびりついている僅かな肉を屠っていた
よく見れば、その口にある歯の隙間からも、蛆虫達がウネウネと動き回り、ポトポトと溢れ出ている
「いやっ!」
景子は思わず、その手に持っていたスコップも手から離し、後ろに退いた
地面に落ちたその白い骸が、周囲の色とのコントラストの中で一層ハッキリと浮かび上がって見えた
景子は、その時、その白い骸が口をニカッと開け、カッカッカッと笑っている様に見えた
「ううっ!」
強烈な酸の刺激が、また胃の中から込み上げてきた
景子は堪らず、両手で口元を抑え、ベランダの窓から、リビングの中に慌てて駆け込んでいった
「なあ、俺、此処ん所なんか身体が痒いんだけど、お前、ちゃんと洗濯してんのか?」
和彦が、背中をポリポリと掻きながら、景子に尋ねた
今日は土曜日、和彦も今日は会社が休みなのでもう昼に近いこの時間に、二階の寝室から起きてきて、今、やっと階段を降りてきたところだ
「ちゃんと洗濯してるわよ⁈
此処って意外に湿気が多いのかしら?」
キッチンで、遅い朝食の準備をしながら、景子は答えた
「これから梅雨のシーズンだからな
今日、除湿機を買いに行くか」
思えば、周囲の家々に囲まれている条件の所為で、家の風通しが、良くないのかも知れない
塀を挟んで、向こう側のその隣の家には、家の庭側に一本の大きな木が生えており、その枝は家と、その隣りを隔てている塀を飛び越えて、家の方まで張り出している、その木の下には、恐らく、長年放置したままの背丈の高い雑草が覆い尽くしている、おまけにその家の庭には中央に池が作られており、鯉が何匹か飼われていた
これから、夏にでもなれば、其処から藪蚊が発生して、この家にまで侵入して来る事になるのではないだろうか?
景子は、今からそんな心配をしていた
この間の庭に落ちていた魚の死骸も、近所の野良猫が、その池から盗み取ったのを、家の庭で食い散らかした残骸だったのであろうと思われた
せめて、もう少しその家のこの家に迄侵入している枝だとか、蔓延ったままにしてある雑草などの庭の手入れをして頂けたら良いなと景子は思い、その事を和彦にも話をしたのだが、ご近所さんのお宅の事情の事に迄、此方からそこまで口を挟める訳ないだろう、と言って、その時は全く相手にしてくれなかった
駅前の商店街を、駅とは反対方向へ進んだ所に、大手のホームセンターがあった
目当ての除湿機を手に入れた後、ショッピングカートを押しながら、二人で、キッチン用品やら、雑貨やらを物色していると
「あら、深山さん⁈」
と前方から声が聞こえた
家の隣りの家の片山さんご夫妻であった
当の、池のある庭の持ち主だ
「こんにちは」
「あら、今日は二人揃ってお買い物?
仲良さそうで良いわね」
片山夫人は、そう言って微笑んだ、その後ろに旦那さんの姿があった
片山さんのご主人が、手に大きな金属製のネットをグルグル巻きにして、その両手に抱えていた
「こんにちは、DIYですか?
良いですね」
和彦が、ご主人に話しかけた
「ええ、最近、家の庭の鯉が、野良猫か、烏か何かに持って行かれているみたいで、その対策をしようと思いましてね」
「そうなんですか、大変ですね」
「でも、お宅も前と比べて随分と見違えちゃって、結構お手入れも大変だったでしょう?」
と、片山夫人が尋ねた
「ええ、まあ、最初はそれなりに」
「前のお家は、おじいさんが一人暮らしだったから、最後の方は、殆ど家の手入れもなさっていなかったから、亡くなる前の頃になると、結構状態が酷かったのよね
おまけに、そのおじいさん、野良猫にやたら餌をあげていたものだから、しょっちゅう、うちの家の庭に迄猫が入り込んだりしててね
その時も、うちの池の鯉、持っていかれたりしたのよ
それでね、其処の家の事を『猫屋敷』なんて、周りからよく言われたりしていたのよね
それで、ウチや、近所の人達も、野良猫にはもう餌をあげないで下さいって、かなり苦情を言っていたりしていたんだけど、結局、前の人はその事を全然聞いてくれなかったわ」
「そうなんですね、でも、今はご心配なく
家は、もうすぐ子供が出来るんで、動物かったりはしませんから」
そう言いながら、和彦は夫人に笑いかけた
「あら、そうだったの?知らなかったわ!
それはおめでとうございます
今は、何ヶ月目なの?」
「もうすぐ五ヶ月目に入る所です」
景子が答えた
「そう、お身体、お大事になさってね」
「ありがとうございます」
と夫人が言って、片山夫妻はその場を去って行った
(この機会に、庭の木の枝の事も少しは言ってくれれば良かったのに…)
景子はそう思い、和彦の事を見上げたが、和彦は全然そんな事気にも留めていない様子だった
前から本心では薄々その事に気が付いていたのだと思う、景子は、最近になってやっとその事を認識したのだが、和彦は外面だけはいつも誰に対しても良いのだ
そして、景子自身も、恐らく和彦のそこに惹かれていて付き合い始めたのだなとも思っていた
六月も後半にまで入ると雨もシトシトと長く降り続く日が多くなって来ていた
今晩も、外は、音は静かではあるが、夕方からポツリポツリと降り始めてきていたのが、夜半に入るとシトシトとした小粒の雨になり、窓や、壁を伝って地面に降り注いでいる、サラサラとした物音がその事を家の中に知らせてくれていた
寝室に置いた除湿機は今、ヴーンと小さな唸り声を上げている
除湿機はその性能が余程良い為なのか、明け方になって、その貯水用のトレーを引き出すと、そのトレーに水が一杯になって溜まっているのに驚かされた
それでも尚、和彦は、最近朝になって起きると、身体が痒い、痒いと言っていた
除湿機は、その事には効果はない様だった
それで、景子は、それはストレスか、若くは、何かのアレルギーなのでは無いのか?と言って医者に診てもらう事を提案したのだが、和彦は今は忙しいと言って、今だに医者に行かないでいた、そして、和彦の夜遅くになってからの帰宅も、やはり依然として続いていたのだった
今日は、明日は朝から出張だから、夜は東京駅近くのビジネスホテルに泊まる、と言って、小さな鞄を持ち、朝、家を出て行った
景子は、此処から東京駅なんて朝、電車で向かっても近いのだから、何もホテルなんかに泊まる必要は無いのではないか?と言って反対したのだが、和彦は
「朝バタバタしたら、景子に悪いだろ、ゆっくりしろよ」
と、笑いながらそう言って、昨晩は小さな鞄に荷物を纏めていた
景子はベッドの上から、仰向けになり、天井を見上げると、先日に気が付いた天井の輪じみが、目に留まった
そう言えば、天井のこの滲みの事、和彦にまだ話していなかったな、と思いながらそれを眺めていた
薄暗がりの中にあってもその輪じみは、くっきりとその存在を主張していた
暗闇の中だからなのか、気のせいなのか、それは以前よりも一層ハッキリと、大きく、濃くなっている様な気がした
景子は尚も、その滲みを見ていると、その滲みが、またウネウネと動き出し、更に、段々と濃く、大きく広がっていく様な錯覚に囚われた
景子はギュと固く目を瞑り、横に向き直し、もうそれ以上、滲みを見ない様に心掛けた
と、その時、天井ある上の方から
『カリカリカリッ』
と小さな物音がした、景子はハッと目を開け、その耳だけに神経を集中してそば立てると、
再び
『カリカリカリッ』
という微かだが、何かが引っ掻かれる音がした
景子は、ハッとして、何かわからないその音に意識を集中させると、その音の後に続いて、突然
『ドン!』
と大きな音がしたかと思うと
『バタバタバタッ』
と、何かが、天井の上を動き回る音が聞こえた
「⁈⁈⁈」
景子は身を硬らせて一瞬にしてパニックになった
尚も、その音は
『カサッ』
そして
『パタパタパタッ』
と天井内を動き回っている
(ネズミ⁈)
景子はガバッと飛び起きて、寝室のスイッチを押して、明かりを灯した
そして、ベッドの上で、布団を全身に巻きつける様にして包まり、その耳だけに神経を集中した、暫くの間、景子は、その様な状態でいたのだが、その後はもうそれ以上、天井から物音が、聞こえて来る事は無かった
それでも景子はその場にいる事が怖くなって、布団をその身に巻きつけながら、階段を降り、リビングの灯りをつけ、リビングのソファの上で身を縮こませながら、一晩中、眠れない夜を過ごし、そのまま夜を明かした
(なんでこんな時に限って和彦は家に居ないのだろう?)
リビングの明かりを全て点け、煌々と照らされているリビングの中に居ても
その恐怖は一向に消える事は無かった
景子はシーンと静まり返ったリビングのソファの上で、怖さと、悲しさが入り混じり、頬を涙で濡らした
お腹がツクーンツクーンとリズムを刻み、やがて、後からシクシクと締め付けられる様な痛みが襲ってきていた
シトシトと降り続く雨が、ベランダへ続くそのリビングの窓を濡らしている
ほんの微かにだが、時折り、隣の家の犬が寝言であるのか
『ウォゥウォゥ』
と小さく唸る声が聞こえて来ていた
外の庭の片隅では、恵みの雨を受けて、葉を緑に、大きく広げきった紫陽花が、その花を徐々に開かせ始めていた
降り続くそのシトシトとした雨を受け止めているその青い小さな花達が、リビングから漏れ出た光の中で、静かに、怪しく光っていた
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