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第五話[七月]
「あー、これは恐らくハクビシンですね」
「ハクビシン?」
害獣専門の駆除業者は、外観をチェックし、庭の周辺を探索した後、その天井を開け、その中を暫くの間何やらガサガサと覗き込んでいた後、脚立から降りてきて、景子にそう言った
「ええ、これが、今撮った天井内の写真です」
そう言いながら、駆除業者はデジタルカメラの画面を景子に見せた
天井裏に敷いてある断熱材の所々が、無惨な形で噛み荒らされており、枯れ枝やら、枯れ草やらが散らばっていた、違う画面には糞と思われる黒い小さな塊が、コロコロと散らばっているものも見せられた
「ハクビシンは割と都会の中でも多く見られる害獣です、家の天井でガタガタと音がしたという事は、この家の何処かに彼らの侵入経路が有り、其方から屋内に入って、天井内に巣を作っているのでしょう
先ずは、天井内を燻蒸して、奴らを追い出します、その後、巣を除去して、殺菌洗浄をし、最後に侵入経路を塞ぎます、それで家の中に入って来る事は防げると思いますが、更に、奴らの捕獲をするとなりますと、行政への届け出が必要になります
その場合、届け出に最低でも一、ニ週間、捕獲するにはその後、罠を仕掛けまして、奴らが罠に掛かってくれるまで、度々餌を換えたり、場所を換えたりして繰り返します
ですから、捕獲するとなると、かなりの期間が必要となります
如何なされますか?…」
「…とりあえずは、燻蒸と、巣の除去をお願いします、それで、一旦様子を見る事にします」
「分かりました、今日の所は、これらか侵入経路の確認させてもらって、侵入経路が分かれば、其処を応急処置で塞いでおきます、燻蒸と、天井内の清掃の方は準備がありますので、明日また、準備を整えまして、此方に伺わせて頂きます」
「分かりました、よろしくお願いします」
そのあと、駆除業者の話を聞いて分かった事だが、寝室の天井に付いていた滲みは、そのハクビシンの尿によるもので、和彦が、最近痒い痒いと言っていたのも、そのハクビシンが持ってきていたノミや、ダニによるものである可能性高いという事だった
「あら、そうなの?
それは大変だったわねぇ」
翌日、駆除業者がガチャガチャと荷物を持って家の前の路地を通り、景子の家に入って行ったのを見て、隣の笹崎さんの奥様が、何事かと様子を見に外に出てきていたので、ご迷惑の挨拶代わりにと、事の経緯を説明した
「どおりで、夜中になると、ウチのジョンが、外に誰も居ない筈なのに時々吠える事があったから、あら?何かいるのかしら?とは、思っていたのよね
そう、まさかそれがハクビシンだったとわねー」
「ええ、私もビックリでした、夜中に天井上から物音がした時は、本当に夜怖くて眠れませんでした」
「ホホホ…
そうよねえ、でも、お宅には、優しい、しっかりとした旦那さんが居るから、その点は心強くて安心よねぇ」
「…ええ、まあ…」
(やっぱり和彦は、外からはその様に見られているんだなぁ)
「そうだ、この事、私、向かいの片山さんに伝えてきますね、多分、彼方の池の鯉を取っていたのも、そのハクビシンがやったのではないかと、業者さんが言っていたので」
と、景子が言うと
「いえ、彼方にまで言う必要は無いと思うわ、
あのお宅だったら、『そうしたら、家の池の鯉が取られたのはお宅のせいじゃないか!』とか言われかねないわよ
彼処の家だって、一時期、彼方の息子さんが、まだ家に居られた時、朝から一日中、アレ…えーと、何だっけ?…あ、ヘビメタって言うやつ?
あの音楽をガンガンかけていて、ウチもずーっとその音に迷惑をしていた事があったのよ、ま、その息子さんも、それから暫くしたら、突然、居なくなっちゃったみたいなんだけどね
そんな事があったくせに、それを棚に上げてよ、ウチに対して、『お宅の犬の鳴き声がうるさい!』
なんて、文句を言いに来たりするのよー
全く、その時は、どっちが⁈と言いたいくらいの気分だったわよ
ただでさえ、夏になると、彼処の庭で、蚊が大量発生して、迷惑してるってのに
せめて、あの池を潰して、庭の手入れをしっかりしてもらいたいものだわ!
ま、そんな感じだから、あんまり、彼処とは関わらない方が良いわよ」
とまくしたてた
「そんな事があったんですか…
この間、ご近所で会って話した時には
割と感じの良い印象に見えたのに」
「その内に分かると思うわ
あ、でも、この事、私が言ったのは内緒ね」
と、言いながら笹崎夫人は、口元に人差し指を当て、内緒だという合図をしてみせた
「分かりました、では」
そう言って、景子は、笹崎さんの家の玄関扉を閉め、家に帰って行った
景子が、笹崎家を出て行くと、笹崎さんの奥さんは、玄関先で、腰を屈め
「ねー、ジョン
家には貴方が居るから大丈夫よねー
それにしても、あの家は次から次へとホントに嫌な事が続くわよねー
だから、あの家は、『化け猫屋敷』なんて言われちゃうのよ、ねー」
と言いながら、愛犬の頭を撫でていた
笹崎家を出て、家の方に戻ろうとしたが、笹崎夫人にはそう言われても、やっぱり何の連絡も伝えないという訳にはいかないよな、と思い、景子は、クルッと引き返したその足を、片山家の玄関に向かって歩き、家のチャイムを押した
『ピンポーン』
暫くすると
『はーい』
とインターフォンから声が聞こえ、片山夫人が出てきた
「こんにちは」
「あら、深山さん、どうしたの?」
「すいません、実は、家の天井裏にハクビシンが住み着いちゃっているみたいで、今、業者さんにお願いして駆除作業をやってもらっているところなんです、それで、ご近所様にはご迷惑をかける範囲の事は無いと、その業者さんはおっしゃっていたのですが、燻蒸の作業とかもありますので…
少し、騒がしい事も有ると思いますが、宜しくお願いいたします」
「あら、そうだったのね
私も、今日は朝から、お隣さんに誰かお客さんが来てるわねー、なんて思っていたのよー
まあ、ハクビシン⁈ この辺りにも居るものなのねー
じゃあ、家の池の鯉が取られたりしたのは、ソレの仕業かしら?」
景子は笹崎夫人の言葉を思い出し、一瞬ドキッとしたが
「ええ、業者さんは、そういう可能性もあるって言っていました」
と、ちょっとドキドキしながら答えた
「まあ、猫でも、ハクビシンでも野生動物のやる事だからね、ウチも心配だから見てもらおうかしら⁈
後で、その業者さんの連絡先教えてくださる?」
と言ってニコッと笑った
景子は少しホッとして
「はい、分かりました、では、またお伺いします」
と言い、挨拶をして、片山家を去った
「おい、誰だったんだ?」
景子が片山家を離れ、片山夫人が玄関の扉を閉めると、奥から片山のご主人がノソリと出てきて夫人に聞いた
「お隣の深山さんよ、なんでも、あの家にハクビシンが出たんだって、それで、今日、その駆除作業をしてるって言っていたわ」
「そうか、じゃ、庭の事じゃ無いんだな」
と言って、また奥の方へ引っ込んで行った
「で、どうだった?」
帰宅した和彦が、風呂に入り、部屋着に着替えを済ませた後に、リビングの食事が並べられたテーブルに着くと、そう聞いた
「うん、侵入経路は外壁の雨樋を伝って、屋根に登り、屋根と瓦の隙間に穴が空いていたから、其処から入ったんじゃ無いかって
屋根の穴は一応、塞いではおいたけど、屋根が結構老朽化してしまっているから、また入り込む可能性は有るって言っていたよ
ただ暫くの間は、燻蒸と撃退薬の効果で再び入って来る事はないだろうけど、って
ねえ、あの寝室の天井の滲みも、やっぱり、この際だから、交換したいよね」
「なんだよ、そこまでやるとなると、結構、金も時間も掛かっちゃうな」
「うーん、でも、しょうがないよね、ね?どうする?」
「どうするったって、やるしかしょうがないだろ、俺、明日にでも業者、調べておいてみるわ」
「うん、お願いね」
夜、和彦は、寝室のベッドに行って、其処で眠ると言う
ずっと痒い痒いと言っていた和彦の、その原因が、ハクビシンが持ち込んだノミやらダニやらであったというのに、よく平気であの寝室で寝れるものだ
一応、業者さんの方も殺虫と殺菌の処置はしてくれたし、景子も、その作業に合わせて、出来る限り、布団だとか枕だとかを日光浴させたから大丈夫だとは思うけれど
それでも、景子は、彼処の部屋では寝ることは出来なかった
何より、あの天井の滲みは、まだそのままの状況になっている、景子は、あの滲みが無くならない限り、あの部屋ではとても寝る気にはなれなかった
何より、一人でいた時の、あの天井裏から聞こえて来たあの、恐怖の足音が、今でもトラウマの様になっていた
景子は暫くの間、リビングのソファをフラットにして、其処に布団を持ち込み、其処で夜は眠る事に決めていた
景子はリビング天井の照明を消し、リビングにあるサイドスタンドのランプの灯りを最小限にすると、ソファの布団の中に潜り込んだ
二階の寝室で寝る時よりも、リビングで寝た時方が遥かに周りの様々な音が聞こえて来る事に驚いた
庭の樹木や、草木の擦り合うサワサワとした音、
近所の野良猫の鳴き声、それに合わせる様に鳴く犬の吠え声、隣の庭にある池の空気を循環させる為にあるエアーポンプの音、時折り、池からポチャン!と聞こえるのは、鯉が飛び跳ねた音であろうか、そして、一本隔てた商店街の方から聞こえて来る酔っ払い達の騒ぎ声…
此処にいて目を瞑っていると様々な音が聞こえて来ていた
それらの音に耳を傾けていると、あらゆる音をその耳で拾いたくなって逆に目が覚めてきてしまう
景子はソファの布団の中に埋もれながら、それらの音に耳を側立てていると、突然、その中でも一際大きく、隣家の犬が
「ワンワンワン!」
と鳴き出した
景子は緊張して、尚も、その鳴き声に耳を側立てていると、犬は尚も
「ウーワンワンワン!」
と吠えている
そして、笹崎夫人の声と思われる
「コラ!ジョン!ダメでしょ!」
という嗜め(いましめ)の声も聞こえてきたが、
その犬は尚も、
「ウー、ワンワンワン!」
と吠え続け、鳴き止む気配を見せなかった
景子は、二階に行って和彦を起こして、外を見てもらおうとも思ったが、何となく和彦が言う台詞が、想像出来た
「どうせ、ハクビシンが戻って来たんだろ」
和彦が、ベッドの布団の中から面倒臭そうにしてそう言っている姿を想像すると、景子は一人勝手に諦めて、和彦を起こしに行くのを止め、耳をそばだてて、外の気配に神経を集中した
笹崎家の犬は、暫くそのまま吠え続けていたが、やがて、吠えるのを止めた
そしてまた、静かになった庭から、外の木々や草花がサワサワと風に揺れる音が聞こえて来た
景子はそれを聞いて、やっとホッと安心をする事が出来ると、突然、睡魔がドッと襲って来て、景子は深い眠りの中に堕ちて行った
その明け方
景子は寝不足気味でありながらも、なんとか和彦の朝食の準備をして、和彦を送り出し、その食べ終わった食器の洗い物を済ませようと、キッチンのシンクの蛇口をひねって水を出し始めた時、玄関の方から
「おい!ちょっと来てみろ!」
と和彦の、かなり慌てている様子の声が聞こえてきた
景子はその時はまだ、マタニティーウェアのパジャマ姿の格好であったが、玄関まで行き、サンダルを引っ掛けて、外へ出て、和彦の姿を探してみると、和彦は、外へ続く細い私道の路地の中ほどに立ち、白い塀の壁を見つめていた
景子が、其方の方へ歩いて行くと、その右側の、白い塀の壁の中ほどが、真っ赤なペンキか、スプレーの様な物で汚されているのに気が付いた
そして、それを呆然とした顔つきで眺めている和彦の直ぐ側まで近寄ると、其処に何か文字が描かれているのだという事が、やっと分かってきた
その白い塀には真っ赤なスプレーの大きな文字で、
『やーい、おまえんち、お・ば・け・や・し・き!』
と、書かれていたのだった
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