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第六話[八月]
老朽化した屋根と、ハクビシンに汚された天井の改装も終わり、ついでに、スプレーで汚された路地の塀の壁の塗り替えも同じ業者に依頼し、壁も元通りになった
勿論、あれから天井裏で、あの恐ろしい物音は一切おきてはいない、全て一応は、落ち着いた日常を取り戻せた様だった
塀の落書きは、警察を呼び、事件として処理はしてもらったが、警察は、恐らくは地元の中高生辺りの悪戯であろうと最初から決めつける様な口振りだったので、多分、まともに犯人は探してもらえないだろうなと思った
案の定、あれ以来、ただの一度も、警察からの連絡や、報告が来る事は無かった
隣の、笹崎さんや、片山さんにも、壁の落書きの事を話したが、どちらも
「この辺は、そういう悪さをする子が多いのよねー」
と、まるで口を揃えたかの様に、全く同じ事を言った
(普段はお互い仲なんか良く無いくせして!)
和彦も、その後も今までと何も変わらず、朝、普通に出勤して出て行って、今でもまだ、度々夜遅くに帰って来るといった感じのままだった
景子のお腹の方は、随分と大きく目立つ様になり、道を歩いていても、一目見て、妊婦さんだと認識されるので、周りがそれなりの配慮をしてくれるくらいになっていた
産婦人科では、その後の赤ちゃんの経過も順調だと言われていた
全てが、一見すればその全てが、元通り、普段通りに暮らしなったかの様に見えていた
でも、景子の頭の中では、あの、塀に書かれていた『お化け屋敷』という言葉が、その後も、常に、大きなしこりとなって頭の中に、こびりついている
(どういう事なのだろうか?)
(この家の、前の住人さんのおじいさんに、やっぱり何かあったのだろうか?)
あの塀の落書きが、本当に警察などの言う通り、私達に全く個人的な恨みなど無く、この周辺に住む全くの第三者によるものだとしたら、この辺一帯に、この家は何か曰く(いわく)が有る家なのだと認識されていた、という事になる
そういった考えに行き着いてしまうと、景子は、つわりの時とは、全く違う何か変な胸の中にガサガサとした気持ち悪さを感じていたのだった
「赤ちゃんもお腹の中で、順調に育っています、もう外の声も聞こえる様になってきていますよ、時々、お腹をさすりながら赤ちゃんに話かけてあげると良いでしょう、夜、寝る時など、苦しい時とかは無いですか?」
産婦人科の医師は、景子にそう尋ねた
お腹も随分と大きく目立つ様になり、確かに最近は夜、寝るのにお腹が苦しくて、寝る向きを何度も変えている事が多い
寝室も綺麗になったので、景子も寝室で寝る様になったのだが、自分が夜中に何度も動くものだから、和彦はそれが気になる様で、最近では和彦の方が、リビングのソファで寝る様になっていた
「ふう」
産婦人科の検診が終わり、景子はスーパーで買い物をし、両手に食料品の入った袋を両手に抱えて、スーパーから家の方へ向かって商店街の歩道を歩いていた
今日は、格別に暑かった
朝、家を出た時からムシムシっとっとした暑さを感じ、まだ昼前だと言うのに、もうジリジリとした暑さを全身で感じる、スーパーから、家まで、そんな距離は無いのだが、もう既に全身から汗が吹き出ている
おまけに、勢い余ってスーパーで食材を買い過ぎた為に、今、この様に両手が塞がれている状態なので、汗も拭く事すら出来ない
景子は、ふと前を見ると、少し目の前に、昔ながらのレトロな感じの『コーヒー 喫茶ポアロ』と書いてある看板に目が止まった
今までは、全然興味がなかったので、今までただ、そこを通り過ぎるだけだったのだが、家のすぐ近くに、こんなレトロな感じの喫茶店があったんだな
と、景子は思った
家までの距離はもう大した事はないのだが、今はその距離すら遥か遠くに感じていた
『カランカラン』
「いらっしゃいませ」
店員さんの若い、髪の長い女の子が此方を振り向き、明るい声で言った
「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
「はい」
「えーと、妊婦さんだから、カウンターより、テーブルが良さそうね、此方へどうぞ」
と広い四人掛けのソファのあるテーブルへその若い店員さんが案内をした
「ふう」
ドカリ
と景子が、腰を下ろすと
「今日は暑いですもんね、大変でしょ?
おしぼりをどうぞ」
と、明るく笑顔を向けながら、若い店員さんが、おしぼりを景子に差し出し、氷の入った水のグラスと、メニューをテーブルの上に置いた
「アイスティー下さい、あ、アイスレモンティーってありますか?」
「ありますよ、アイスレモンティーですね」
景子は、スーパーの食品の詰まったレジ袋をソファの奥に置き直すと、銀のトレーに乗っているおしぼりを手に取り、顔に当てた
ヒヤッとした感覚が、汗ばんだ顔にとても気持ちが良かった
そして、氷の入った水で喉を潤す
氷の入ったグラスの水を飲み干すと、景子は、やっと生き返った様な気がする、ふうっとため息をついた
「本当に今日は暑いですもんねー
おかわり、どうぞ」
そう言いながら先程の女性の店員さんが、氷の入ったグラスに、水を注ぎ直した
「あ、すいません、ありがとうございます」
「そのお腹じゃ、外歩くだけでも大変でしょ?もう何ヶ月なの?」
「ええ、今、七ヶ月目です」
景子はお腹をさすりながら答えた
「あら、じゃあ、あともう少しね」
若い女の子の店員さんは、明るい声でそう言った
店員さんは、景子と年齢がさほど変わらない様に見える
「佳代子ー」
カウンターの中から、年配のマスターが、カウンターの上に琥珀色の液体が入ったグラスを置いて、その店員に声をかけた
「はーい」
その若い店員さんが、カウンターを振り向き直し、カウンターまで戻ってそのグラスを手に取り、此方のテーブルまで戻って来た
「お待たせしました、アイスレモンティーです」
と言って、そのレモンのスライスが沈んだ琥珀色のグラスをテーブルに置くと、とガムシロップの入った銀の小さな容器をテーブルの上に置いた
「家まであと少しなんだけど、今日は、もうそれも我慢出来なくて」
景子は、そう言って笑いながら、その琥珀色の液体の中にガムシロップを落とした
「あら、そうなの?じゃあ、もっとどんどんウチを利用して!お家はどちらの方なのかしら?」
「そこの路地を入った奥の所です、最近此方に越して来たばかりなんです」
「えーと、じゃあ、もしかして、最近改装した?片山さん家の近くの?」
「ええ、そうです、ご存知だったんですか?」
「彼処の家も、ここの所、暫く空き家になっていたんだけど、最近、改装して綺麗になっていたから、誰が入って来たんだろうって気になっていたのよ
そう、貴女だったのねー
前は何方にいらしたの?」
「前は、名古屋なんです、結婚して主人が東京の勤務になったものだから、三月に此方にやってきました
あ、私、深山と言います」
「わたし佳代子、畠山佳代子、宜しくね」
「片山さんの事、ご存じなんですね」
「ええ、片山さんのご夫婦は、たまにお二人で、此方にいらっしゃるわよ」
「そうなんですね、あ、それならば、ちょっと伺ってもよろしいですか…?」
「ええ、なあに?」
「家の前の住人さんの事なんですけど…
お一人暮らしのご老人だったとか…?」
景子は、この前の塀の落書きの事もあり、少しでも多くの情報を耳に入れておきたかった
ご近所で、今の家がそれまでどの様に認識されていたのか聞く事が出来れば、と思い尋ねたのだ
「そうねー、須賀のおじいちゃんねー
最期の方はずっと独り暮らしだったから、随分と寂しかったんじゃないのかしらね
前は、奥さんも娘さんも居たみたいだけど、娘さんが若くして亡くなっちゃったみたいで、それから暫くは、ご夫婦二人で暮らしていたみたいだけど、その奥さんも、もう十年以上経つかしら?お亡くなりになっちゃったみたいで…
それからはずーっと彼処で一人で暮らしていたのよね
だから多分、寂しかったんだと思うわ、そのおじいちゃん、ご近所の野良猫を可愛がっていて、その猫達に、毎日餌をあげていたものだから、あの辺、野良猫ばっかりになっちゃっててね
この辺では、あの家を『猫屋敷』なんて呼ぶ人もいたわよね
あ、これは、聞かない方が良かった?」
佳代子は、ちょっと喋り過ぎたかな?という様な顔をして、慌てて口元を手で押さえた
「あ、大丈夫です、その話はご近所さんから聞いて知っていましたから」
「あー、良かった!
私、喋り過ぎたかと、思っちゃった」
と言って佳代子はペロッと舌を出した
「その事でね、ご近所さん達からは、鳴き声がうるさいとか、糞やオシッコを近くでしたから臭くなっちゃっただとか、文句を言う人もいたみたいだけどもねー、その事で、何度かトラブルもあったしね」
「トラブルですか?」
「私はね、小さかった時は良く、その猫達を撫でに遊びに行ったりしていたから、何とも思っていなかったんだけど、ほら、そのお隣さんがが犬を飼っているでしょ?
その犬が、猫達を見るとよく吠えたのよ、それで、その犬の飼い主が、猫に餌をあげるのを止めてくれって、おじいちゃんによく文句を言っていたんだけど
それでも、須賀のおじいちゃんは、それを全然聞かなかったみたいで
で、一度、その犬が家から逃げ出ちゃった事があってね、その時に子猫を何匹か、咬み殺しちゃったりした事があったのよ
その時は、須賀のおじいちゃんとお隣さんとで、相当な大喧嘩になっちゃってたみたいよ
後ね、そのお隣の片山さん、前は息子さんが一緒に住んでいて、その息子さんがね、引きこもりになっちゃって、一日中家に居たのね
家の中で一日中大きい音楽かけていたりて…」
「佳代子!」
マスターが、カウンターの中から、余計なお喋りするな!と言った風で、声をかけた
いけない!っといった風に佳代子が、口元を手で押さえた
「いえ、もうちょっと話聞かせてもらって良いですか?」
と、景子が言うと、佳代子はもっとお喋りをしたかったのか、周囲を軽く見渡すと、景子の座っているソファの反対側に浅く腰を落とした
お客さんは、景子の他は、カウンターに一人と、二人掛けのテーブル席に一人、居るだけだった
「その息子さんが、猫の鳴き声がうるさくて我慢出来なかったんじゃないのかしら、その辺は、本当のところはよく分からないけど、猫にね、毒入りの餌をあげたとかで、猫がいっぱい死んじゃった事件が起こったのよ
あ、その犯人は、結局、その片山の息子さんって断定した訳じゃ無かったんだけど、須賀のおじいちゃんは、その子がやったんじゃないかって、もうその時は、大騒ぎになっちゃって…
まあ、その後、息子さんも、その後、いつの間にか、家を出て行っちゃって、今は、行方不明みたいなんだけどさ
片山さんは、その事については、何も言わないけどね、片山さんのご夫婦も、その息子さんにには相当苦労したみたいだから」
「そんな事があったんですか…」
「須賀のおじいちゃん、そんな事があったから、そんな事件が続いた後、誰もご近所で、お付き合いする人いなくなっちゃって、だから、随分その後は寂しかったんだと思うわ、最期は、寝たきりになっちゃったのを、訪問介護の方が来た時にたまたま発見されて、そのまま病院に運ばれたのね、そして、其処で二年位前に亡くなっちゃったみたいよね
それで、それからはずっと、あの家、住む人が居ないまんまだったっんだよね
でも、もう今は、家も綺麗になったし、貴女みたいな素敵な人が越して来たんで本当に良かった!」
「そんな、でも、ありがとうございます
それで…あの家で、『お化け屋敷』とかって噂は無いですよね…?」
「お化け屋敷⁈」
佳代子が、眉間に少し皺を寄せ、顔色が悪くなったのは気のせいであろうか?
「実は…」
と言って、景子は、この間の塀の落書きのあった一件の話をした
「…それで、この間から、少し気になっちゃって」
「そうだったのね、確かに、暫く空き家になっていた頃は、地元の中高生とかが、面白がって中に入って悪戯をしていたって話しもあったけど、実際に幽霊を見たとかって噂は無いわよ
だから、その塀の落書きも、そんな子達が、面白半分にやったんじゃ無いかしらね?」
「そうだったんですね、それを聞いて安心しました、ありがとうございます
あ、お会計払います
レモンティー美味しかったです、ごちそうさま」
「ありがとうございます400円になります
ね、深山さん、またいらして!
ね、私達お友達になりましょ!
私の事、佳代子って呼んでね」
「私、景子、深山景子です、ええ、また来ますね」
景子が、お金を払い、荷物を持つと、佳代子は、入り口まで来て、その扉を開ける手伝いをした
「ありがとうございました
ね、きっとよ!また来てね!」
「ええ、きっと、ごちそうさま」
『カランカラン』
外へ出ると、また、ムワッとした暑さが、景子の全身を取り巻いた
(良かった、そんなに気にする事はやっぱり無かったのかもしれない)
両手の荷物を握り直し、景子は、家に向かった
「おい、須賀さんの家の新しい住人か?」
マスターは佳代子に声を掛けた
「ええ、また何か無ければ良いけどね
妊婦さんだって、大変よね
ねえ、お父さん、私、少し余計な事、喋り過ぎちゃったかな?」
「そう言えば、またあの花の咲く季節だな…」
そう言って、一瞬、何処か遠くを見る様な目をした後、マスターは、目を落とし、下げられてきたグラスをカチャカチャと洗い始めた
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