25人が本棚に入れています
本棚に追加
第七話[苦月]
ハクビシンの件も、塀の落書きの件も、景子の中で心理的に落ち着きを取り戻せて来た
これが、[環境に慣れて来た]というやつなのだろうか
此処での生活サイクルも、ようやく安定して来た様な気がしていた
喫茶店『ポアロ』の佳代子とは、最近、よくお店に行って、そこでお喋りする様になっていた
景子にとって、其処『ポアロ』は、日頃のストレス発散の場にもなっており、憩いの場となっている様だった
佳代子とも、年齢が近い事もあり、最近では何事でも良く話しあえる様な関係になっていた
思えば、此処に来てから、景子は家に居るばかりで、出掛けると言っても、買い物とか、産婦人科の病院とか位しか行く場所と、目的が無かった
名古屋から、東京に引っ越しをしてきて、以前の友人達とも遠く離れてしまっていた為に、ずっと、人と心置きなく話したり、悩みを打ち明けたりする機会が無かった事に、今更ながら気付かされた
そういう意味でも、景子にとって。喫茶『ポアロ』と、佳代子は、とても貴重で、有り難い存在になっていた
「景子さんのお腹ももう随分と大きくなってきたわね〜」
喫茶『ポアロ』で、お客さんの居なくなったテーブルを片付けた後に、そのテーブルをクロスで拭きながら、佳代子が言った
「ええ、もう最近はお腹が張って苦しくて、それに、赤ちゃんが結構よく動くから」
景子は、お腹を摩りながら言った
喫茶『ポアロ』には、週に二度は必ず通う程の頻度になっていた
和彦の帰りが遅いのにも、もう慣れて来てしまっていたし、その内の何度かは、夜、食事も外で済ませて来たと言って風呂に入ると、そのまますぐに寝てしまう事も多いので、今では、景子も、夕方迄に慌てて食事の支度を作らなくても良いや、という感じになっている
「相変わらず、旦那さん遅く帰って来る事多いいの?」
佳代子は、景子に尋ねた
「うん、週のうちの半分は遅いかな、週末も、最近は一人で出かけちゃう事も多いし」
景子は、レモンティーのグラスを両手に抱えながら答えた
「もうすぐに赤ちゃんが産まれるってのにねえ、もう少しなんとか融通して欲しいわよねぇ」
「本当に、ハハハ…」
そう言いながら、景子は、両手で持ったレモンティーのグラスの中の氷の中に沈んだレモンのスライスを見つめた
「こら、佳代子!また余計な事を…
すいませんねぇ、コイツは本当に気の利かない奴で」
マスターが、カウンターの中から佳代子の言動を嗜めた
何度か通う様になって分かった話なのだが、此処のマスターは佳代子の父親で、佳代子は高校卒業して直ぐに、男を作って暫くの間、親元を飛び出し、その男と、都内で同棲して暮らしていたらしいのだが、どうやら、その男が、どうしようもなく素行の悪い人間で、佳代子も、散々と働かせられて、貢がされたその挙句に、おまけにDVなども日常的にあったらしく、その生活はかなり荒んだものだったと聞いた
そして、三年程前に、佳代子の方が、とうとうその男に我慢出来なくなって、実家に逃げ帰って来たのだとだという
「いえ、全然気にしてませんから
寧ろ、佳代子ちゃんには、いつもお話し相手になってもらっているから、逆に気が紛れるんです」
「ほーら、イーッだ!」
と言いながら、佳代子はカウンターの父親に向けて歯を剥き出した後に、ベーッと舌を出して見せた
マスターは、やれやれという顔をして、カウンターのシンクで洗い物を再開し始めた
実際に、それは景子の本心だった
今日も、一人寂しく、いつ帰って来るのか分からない和彦を、シーンと静まり返ったリビングで待つ事を考えると、気が重くなる
この喫茶『ポアロ』でいつも明るく接してくれる佳代子とおしゃべりしている時間が、景子にとって本当に貴重な気の安らぐ時間だったのだ
「ねぇ、景子さん、今度お宅の家に遊びに行っても良い?」
「勿論よ、是非いらして」
「わー嬉しい!じゃあ、今度、旦那さんも是非紹介してね!」
「ええ、でも、お部屋も、庭も、全然片付いていなくて恥ずかしいわ」
「しょうがないわよ、妊婦さんなんだから
私、そんなの全然気にしないから」
実際、ハクビシンの一件以来、景子は全然庭に手を付けられないでいていた、それどころか、最近では、庭の状態も殆ど気にした事が無かった、多分、庭の雑草なども随分と伸びっぱなしになっているのであろう
じゃあそろそろ、と言って、『ポアロ』を出ると、景子は、考えると気の重くなる我が家に向かって歩いた
家の前の塀に囲まれた細い路地を通ると、相変わらず、笹崎さんの家の犬に
『ウーワンワンワン!』
と吠えられた
もう威嚇する様な大きな唸り声をあげて吠えられたりする事までは無くなったが、今だに、警戒心を此方に向けている様だった
景子は家の玄関を開け、リビングに行くと、今日買い物をして来た物を冷蔵庫にしまった
先程の佳代子との会話を思い出し、久しぶりにベランダから、庭を眺める気持ちになった
薄いレースのカーテンを開け、窓から庭を覗くと、案の定、庭は一面の草木に覆われていた
(やっぱりね)
「はぁ」
と、ため息をつくと、庭の、桜の木の下の周りに、いつの間に凛とした茎が真っ直ぐと伸びており、その先っぽには幾つかのまだ緑色をした蕾がついているのが目に留まった
(あら、何の花かしら?)
五月の頃に見た、景子が、菖蒲か、水仙の花だと思った植物のあった場所辺りだった
庭を、来た時にちゃんと手入れをしていれば、そんな草木達も、ゆったりと鑑賞する事が出来ていたのかも知れない、景子が、当初思い描いていた一軒家での生活と、今の実際の状況ととでは、かなり大きなギャップが有る事を考えると、景子は、また気が重くなってきたので、ベランダへ続く窓のレースのカーテンをまたシャッと閉め直した
景子は、リビングのテーブルの上に置いてある自分のスマートフォンを取り、画面を開いた
その画面は、待ち受け画面そのままの状態で、何の着信等のお知らせも表示されていなかった
和彦は、最近では、遅くなるという時でも、メールすら送ってこない時がよくある様になっていた
「はぁ」
景子は小さいため息をつくと、和彦に
『今日は遅くなるの?』
と、LINEのメッセージを打って送信すると、スマートフォンをリビングのテーブルに置くと、食べるか食べないのかすら分からない、二人分の食事の用意をし始めた
その後、夕方に、和彦からのLINEで
『今日も、多分遅くなる、ご飯先に食べてて』というメッセージが届き、結局、今夜も一人で食事を済ませ、そして、見る訳でもないテレビを付けながら、食事の洗い物をしていると、
『プルルルル』
と固定電話の着信音が鳴った
固定電話の方が鳴る事は、今まで滅多に無かったので
(誰かしら?)
と、一瞬考えを巡らせた
「はい、深山です」
と景子が取ると、受話器からは何も聞こえなかった
「もしもし?」
「………」
もう一度
「もしもし?」
と言ってみたが、受話器からは何も聞こえてこなかった
景子は、怖くなって、ガシャン!っと受話器を電話機に置いた
受話器を下に置いても、景子は、暫くその場を動けなかった
(こんな時に和彦が居てくれていれば…)
ただ一人、この広いリビングの中に居る事が、景子は急に寂しい気分に襲われた
『ドンドン』
不意に、景子のお腹の中で、赤ちゃんが強くお腹を蹴る感触があった
それは、我が子が、『此処に居るよ』と伝えている様に景子には感じた
(そうだった、自分は一人では無い)
景子は
「ふうっ!」
と強く息を吐き、気を取り直すと、再び洗い物をしに、キッチンに戻ったのだった
翌日
和彦は、昨夜は相変わらず、景子が既に寝てしまってからの遅い帰宅だった様で、景子が朝、リビングに降りると、昨日の夕食が、手を付けられずに、ラップをしたそのままの状態で、テーブルの上に並んでいた
和彦は、リビングのソファの上で寝息を立てていた
「…」
景子は、なるべく静かにして、それを冷蔵庫にしまうと、朝食の準備を始めた
暫くすると
「あ、おはよう」
と言って和彦が、リビングのソファから起きて来た
「昨日も遅かったの?」
と、景子が聞くと
「ああ」
と言って、モソモソと、洗面所の方へ歩いて言った
朝食をテーブルに並べ、和彦と一緒に、食事を取っている時、景子は、和彦に、昨日の無言電話の件を話そうかと思ったのだが、単に、何処からかの間違い電話だったのかも知れないので
言うのを止めた
朝食を済ませ、今では、いつもの儀式の様な感じで、和彦を玄関から見送ると、また、景子の、一人寂しい一日が始まろうとしていた
その翌日の夜
景子が、夕食の準備を済ませ、リビングでテレビを付けて見ていると、また、固定電話のベルが鳴った
景子が立ち上がり、嫌な予感を抱きつつも、その電話に出ると、やはり、また、受話器の先から声は聞こえなかった
「もしもし?」
「…」
「もしもし?」
「…」
「切りますよ!」
ガチャンと、景子は受話器を置いた
すると
「ただいまー」
と、玄関から声がして、和彦が帰って来た
「あ、おかえり、今ね、なんか気持ちの悪い電話がかかって来てたの」
「…そうなんだ⁈
で、相手はなんて?」
「それが、無言電話なのよ、実は昨日もかかって来てて…」
「誰かの悪戯だろ⁈
俺、先、風呂入って来ちゃうわ」
と言って、和彦は風呂場の方へ向かって行った
和彦が風呂から出てきて、夕食を二人で取りながら、景子は再び、先程の無言電話の話題を持ち出した
「昨日も、無言電話かかってきたし、この間の塀の一件だって…ハクビシンの件もあるし、
なんか、此処に来てから、嫌な事が続いてきみが悪いわ」
「全部、偶然だよ、[無言電話]と、[塀の落書き]と、[ハクビシン]
どれも全然繋がりが無いじゃ無いか
何れも同じ人がやったって事には、ならないだろ⁈」
「そうなんだけど…」
「ま、あんまり、気にすんなよ
無言電話だって二回だけだろ?
直ぐに収まるさ」
「だと良いんだけど…」
「それよりさ、今週末に、また出張になりそうなんだ、土曜、日曜と行ってくるから」
「またぁ?
庭の手入れやってくれるって言ってたじゃない
来週、家に友達が、来るから、少しだけでもやっておきたかったのに」
「しょうがないだろ、仕事なんだから
その内、落ち着いたらやるよ」
「…」
景子は、もうそれ以上言うのを止めた、それ以上言って、和彦が機嫌を損なうのが嫌だった
久々の再び揃っての夕食の席を気まずい雰囲気で過ごしたくなかったからだった
土曜日の夜
今夜は、和彦が出張なので、帰って来ない
景子は一人寂しく夕食を済ませ、テレビのお笑い番組をただぼんやりと見ていると、また固定電話の呼び出し音が鳴り始めた
『プルルルル』
景子は、今日もまた無言電話であったのなら、今日こそは、何か言ってやろうという気構えで、その電話に出た
「もしもし…?」
「…」
やはり、相手は相変わらず無言であった
「いい加減に…」
と、言いかけたが、今日は電話の先で、遠くザワザワとした話し声が聞こえてきていた
先日とは違って、何処か賑やかな所から電話をかけてきている様な雰囲気だった
景子は、耳を済ませ、相手の情報を少しでも探ろうと、電話機の相手先の音に意識を集中した
ザワザワとした幾人かの話し声、何処か広いロビーの様な場所から掛けているかの様な雰囲気だった、暫くそのままの状態が続いたが、やがて、相手の電話機の遠い奥の方から
「おーい!アヤコー、ん⁈誰に掛けて…
[ブツン]」
『ツーツーツー』
そこまで聞こえて、電話は切れてしまった
景子は、サアッと血の気が引くのを感じた
その電話の先から聞こえてきたその声は、まず間違える事は無い
目の前が真っ暗になり、クラクラと立ちくらみがして、景子はその場に思わずじゃがみこんで、暫くその場から立ち上がれないでいた
頭の中で
(アヤコー、アヤコー、アヤコー…)
と何度もその言葉が繰り返されていた
いつもの聞き覚えのあるその声…
いや、そんな筈は…
でも、まさか…
景子は、様々な考えが頭をよぎり、その考えが頭の中でグルグルと回っていた
『わはははは…』
リビングからテレビの、耳につくうるさい笑い声が聞こえてきていた
『リーリーリー』
庭からは、鈴虫だろうか、微かだが、虫の鳴き声が聞こえてきていた
景子はヨロヨロとようやく立ち上がると、テーブルの上にあったテレビのリモコンを取ると、テレビを消し、外の風に当たって、少し気分を紛らわせようと、リビングのカーテンを開けた
庭にリビングから漏れた明かりが照らされた
ベランダの窓を開けると、モアっとした風が室内に入り込んで来て、たちまち景子の全身を覆った
それでも、今の景子には、外からの新鮮な空気の方がまだマシだと思い、景子はリビングからベランダに出た
『リーリーリー』
庭の藪の中から虫の音色が聞こえてきていた
景子は、庭の桜の方へ目を移す
(…!)
それを見て景子は思わずギョッとした
其処には、いつ咲いたのか、毒々しい程に真っ赤な花が辺り一面に咲いていたのだった
その花は、『曼珠沙華』 彼岸花の花だった
その真っ赤な花が、リビングからの明かりの中で、照らされ浮かび上がって見えていた
緑一面の庭の中に浮かび上がる血色の、炎にも似たその花弁…
今、それが、リビングの明かりに照らされ、時折吹くザワザワとした風の中で、メラメラとした火焔の様にゆらめいていた
「うっ!」
お腹の中で、赤ちゃんが寝返りをうったのか
『ズン!』
とした下腹部に激しい痛みが込み上げてきた
「うううっ…」
景子はたまらず、その場に蹲ってしまった
『リーリーリー』
相変わらず庭では虫達が鳴き競っていた
最初のコメントを投稿しよう!