第一話[三月]

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第一話[三月]

「いやー、此方の物件は本当にお買い得だと思いますよ」 不動産業者の高橋は二人を案内しながら スーツのポケットの中から鍵を取り出しながら言った 都内のJR線の最寄り駅から歩いて15分 如何にも下町といった感じの幅の狭い路地を歩いて行き、更に、二件の民家の壁に挟まれた細い私道を進んで行くと、その二階建ての建物はあった 錆(サビ)で汚れた門扉を、キイッという音を立てて高橋が開けると、玄関まで続く石畳が見えた 石畳の周辺は膝までの高さの雑草に覆われていた 景子はその雑草を見て (ああ、コレは最初に相当手入れが必要そうだわ) と先ず最初に考えた 「前の持ち主が退去してからもう二年が経ちますから、この有り様になっておりますが、手入れをすればかなり見違えた物になると思います 、何より、格安ですから」 高橋は、その景子の心情を察してか、そう言ったのだった 「確かに格安だったけど、まさか事故物件とかじゃ無いでしょうね?」 景子の旦那の和彦は、少し疑いの声を込めて聞いた 「まさか!、前の持ち主は確かに独居老人でしたが、ちゃんと病院で亡くなっております」 高橋は大袈裟に手振り、身振りを交えながらその言葉を否定した 「三年程前、此方の前の住人さんが寝たきりになって居たのを、地元自治体の訪問介護の方に発見され、病院に搬送致しました、そしてその方は、二年前に病院にて亡くなったのですが、その方は、お子さん等、此方を相続される様な方はいらっしゃらなかったので、結局、その方のお兄さんに当たる方が此方を相続なさったのですが、既に、その方は福島でご自宅を持っていて、家族も其方にいらっしゃったものですから、此方の物件を処分してもらいたい、と私共に相談があったもので、今こうして私がご案内をしているという次第です」 と、高橋が饒舌に話をしながら玄関の扉を開けた 玄関も、今時一般的な洋式の、片開きタイプのドアでは無くて、昔風の和風な引き戸タイプのドアだった 「まぁ、事故物件で無いと言うのなら良いか 少し古い作りなのは値段の方で我慢しなくちゃ、なのかな」 和彦は少しため息混じりに、だが、それ程迄には気にしていない風で呟いた 「でも入り口に来るまでが狭いでしょ⁈来るまでの道も路地に入ってくる所なんかは、結構、夜になると暗そうだし、私、なんかちょっと不安…」 景子はお腹を両手で摩りながら、眉を顰(ひそ)めて言った 「しょうがないだろ、駅から近いだけありがたいと思わなきゃ、都内ならこんなものでもかなり十分とも言える条件なんじゃ無いのか?」 と、和彦が景子に言うと 「左様ですとも!コレ程お買い得な物件はそうそう無いと思いますよ、今の所有者様も本当に欲が全く無い様な方で、他と比べましても此処のこの価格は相当な破格と言えます」 高橋がココぞとばかりに猛プッシュしてくる 「そうなのかしらね…」 景子はまだ充分には納得出来ない顔で言った 景子と和彦が結婚したのはつい、三ヶ月前の事だった 和彦は景子が勤めていた会社の先輩だった 景子が短大を卒業し、地元の中小の電機機器メーカーの事務として採用された、その会社の本社は東京にあったのが、景子は地元を離れるつもりも無かったので、地元勤務を希望し、念願かなって自分の地元近く、名古屋支社での勤務となった、その会社は社員寮があり、景子は地元とはいえ、実家のある豊橋からは到底通う事は出来ないので、名古屋駅近くの社員寮から会社に通う形になった 事務の仕事は毎日平坦で、半年もすれば仕事にも慣れてきたのだが、毎日の、仕事への行き帰りの日々に飽き飽きとし始めた頃、和彦と知り合ったのだった 最初の切っ掛けは、会社の事務の先輩からの紹介だった 言わば合コンに近い形で飲み会が催された時があり、その男子メンバーの中に和彦がいた 和彦は技術屋であったが、会社の人事異動で此方の名古屋の配属になったばかりだった 背が高く、顔立ちも今流行りの顔と言える様なルックスだったので、その飲み会のグループの女子の間でも、たちまちの一番人気となっていた 景子は、そんな女子達の雰囲気に遠慮をして、その場では控えめにしていたのだが、どうやら和彦の方から景子の事を気に入ったらしく、その日の内に雰囲気で連絡先の交換をすると、翌日にはもう和彦の方から食事の誘いの連絡があった 地方勤務にまだ慣れない和彦を、景子はデートの度に地元名古屋のいろいろな所を案内し、それなりに楽しい時を過ごした 付き合いも半年程経ち、景子の入社が一年目を迎えた頃、成績も優秀な和彦に本社異動の話が持ち上がってきた 景子はその事を聞き、これからは遠距離恋愛になるのだろうか?と思われていたタイミングで、景子の妊娠が判明した その事を和彦に告げると和彦は、二、三日空けてから景子に結婚しよう、と正式にプロポーズしてきた、景子は和彦だけが勿論の本命であったし、仕事も、それ程未練のある業務内容でも無かったので、このまま和彦に着いて行く事が自分自身にとってベストな選択であると思ったので、そのプロポーズを快く受け入れた 結婚の段取りはトントン拍子に進んだ、景子の両親は大賛成で、景子が和彦に着いて行く事にも、快諾致します、という雰囲気であった 景子は上に兄貴がおり、結婚して嫁も子供(両親にとっては可愛い孫である)も実家に居て、一緒に暮らしているので、それで充分満足なのだろう 幸い、和彦のご両親も、和彦の地元が埼玉であり、嫁を連れて御実家の近くに息子が戻って来る事を嬉しく思っている様だったので、景子の存在は大変歓迎された そして、慌ただしく結婚式を済ませ、次はいざ引っ越しか、という時、和彦の両親が、どうせなら都内に家を購入してはどうか?という話を持ち出してきた 和彦は次男であったが、実家はその地元ではそこそこの名の通った会社を経営しており、金銭的にも余裕がある様子だった そこで、結婚するのであれば家族が増えるのだから、賃貸で気を遣ったマンション住まいをするよりは、頭金は此方で出すから都内の一軒家を購入してはどうかとという提案をしてきた 景子としては都内ならば、マンションの住まいで十分では無いかと思っていたのだが、両親の言う事を今まで素直に聞いて育ってきたという和彦は、今回の提案にも、素直に両親の言葉に従い、一軒家を購入する事に決定したので、こうやって今、物件を探しているという次第だった 当初、都内でも区外から外れた一軒家を何件か回って見ていたのだが、どれも駅からはかなり離れた所が多かった、マンションであればかなり良い候補があったのだが、和彦の両親はなにせ田舎の育ちで、マンションより、一軒家と言う思いが強いらしく、マンションの購入には何故か難色を見せた、和彦の方は、昔から、両親の意見に反対する性格では無いらしく、と言うか、根が優柔不断で、物事の一切を自分一人で決める事が苦手で、昔から全て両親の意見に従ってきたタイプなのだ、という事がこの時になって初めて分かってきた 景子は頭金を和彦の両親が出してくれる手前、それに意見も言える筈も無く、大人しくその方向に従わざるを得なかった 和彦と景子は、週末の休みの度に、新幹線で東京まで来て、いろいろ物件を見て回ったのだが、中々、コレぞ!という物件には巡り会う事が出来なかった いよいよ和彦の異動の話が本格的になり、後、一月弱でその辞令が下りそうだという頃、前々から、物件を探すのを、お願いしていた不動産屋さんから連絡が来て、区内にお手頃な物件が見つかったという話が舞い込んで来た その物件は、下町ではあるが、23区内にあった 物件を探すのにお願いしていた不動産屋が、懇意の同業者に当たっていた所、今売り出し中の物件を丁度持ってますよ、という話で、では早速と、自分達の所に連絡が来たのだった 景子はその時には既に会社を退職していたが、和彦の方はまだ名古屋支店に在職中であった為、休日を利用し、今日こうやって、新幹線を使い東京迄出てきたのだった この物件のある区内で不動産業を営んでいるという高橋の案内で、東京駅からJR線で一本という立地のこの最寄り駅に降り、迎えに来ていた高橋と待ち合わせ、徒歩で、この物件迄やって来たのだった 確かにこの物件は駅から近い、それは間違い無かった、駅も近年、改装され新しく、駅に隣接して大きな駅ビルも出来ているので、買い物にはとても便利な環境だとも思った、駅周辺からこの物件の近くまで繁華街と商店街が続き、この家の近くまでは明るい街灯が続いている様子だった、ただ、表通りから一本裏手に来ると、そこはまだ昔ながらの下町風景で、その道々は細く、また、この物件というのが、更に東京下町の雰囲気そのままな形で、その建物は周囲の家々に囲まれたど真ん中に位置し、そして、その家の玄関まで行くには、私道の、周囲の家々の壁の細い隙間を通らないと辿り着けなかった 景子も田舎育ちの人間であったから、勿論、そんな条件の家が存在する事など知る訳も無かったが、不動産屋の高橋が言うには、都内では比較的普通の事なのだと言う 「私道は細いですが、敷地面積は広いですし、此処の庭は他と比べても随分と広いと思います、生活を始めれば、快適なのを必ずご実感なさって頂けると思います」 高橋は揉み手風の振る舞いでそう言った 確かに、周りは家々に囲まれてはいるが、庭だけは十分に広く、ベランダの窓を開ければ日差しも良く入り、開放感はあった、建物自体も多少作りは古くても、意外にしっかりしている風だとも思った 「落ち着いてからリフォームすればもっと快適になるさ」 和彦はそう言った 和彦の東京勤務迄間も無くなって来たので、一刻も早く和彦は物件を決定したがっている様子だった 景子の方は、此処が終の住まいとするにはかなりな抵抗があった、もっと決めるのなら慎重に見極めたい思いであった その時は一旦、返事は保留にしたのだが、和彦の本社勤務日迄が迫って来ていたのと、その後も、猛プッシュで連絡してくる高橋のアプローチに根負けする形で、二人はその物件の購入を決定した 景子の方も自身の身重な身体の事で頭がいっぱいで、それに口出し出来る余裕も無く、言われるがまま、されるがままの形で其処に住まいを移す事となった 東京都内に桜が咲き乱れ、それに時を合わせ、呼吸をも合わせるかの様に風が強く吹き始めた三月の下旬、深山和彦、景子夫妻は此処東京の下町の一軒家に引っ越して来た 「わあっ! 思ったより綺麗になってるじゃん!」 景子は例の細い路地を抜けて家の玄関を見て思わず、開口一番そう叫んだ 門扉は綺麗に塗りなおされていてピカピカになっており、玄関に続く石畳周辺の除草もしっかりとなされていた ちょっと古めかしいなと思っていた玄関の扉迄しっかりと片開きのドアのタイプに変えられていた、おまけに元々二枚の引き戸がついている形だった為に玄関の入り口は広く大きく、横にスリットのある縦長の窓迄付いていて結構オシャレな感じに作り替えられていた 「だろ? 結構無理言ったけど、急な工事でもかなり希望通せたと思うぜ」 和彦は私物の大きな段ボールを二つ抱えながらそう言った、マスクをしているが、ニンマリと笑っているのがその目だけでよく分かった 景子は和彦の為に玄関の扉を手で押さえて中に通してやり、室内の換気の為に、雨戸やら、出窓やらを開けて回った 「おいおい、一緒に花粉入って来ちゃうじゃん」 和彦は花粉症が酷く、今まだこの季節は悩まされ続けていた 「空気入れ換えたらすぐ閉めるね」 「こりゃ部屋数も広いから空気洗浄機結構な数必要になるなぁ」 和彦はリビングで、手に持って来ていた段ボール箱をドサッと置きながら言った 景子はリビングからベランダ越しに庭を眺め、 また思わず 「わあっ!」 と声を上げて、ベランダに駆け寄った ベランダ迄出ると、業者さんに依頼して手入れをしてもらった庭の片隅に背丈の二倍程の高さの一本の捩れた形の木が植っており、その木からピンク色の花が咲き乱れ吊り下がっている 「あれ、桜かな?」 「うん、でもソメイヨシノとかでは無いよね? ピンク色もずっと濃いし、花びらの数もずっと多いみたい」 「うん、花も垂れ下がった感じだしな、枝垂れ桜、なのかな⁈」 「でも、庭に花が咲く木があるって良いよね 私、落ち着いたら、ガーデニングとかやってみようかな?」 「俺は、勘弁! 更に花粉症が酷くなりそうだから」 「ま、和彦はそうかもね 良いよ、私の趣味にするから」 景子はまだ重くはなってきてはいないが、何となく癖でお腹を両手でおさえながら 悪戯っぽく笑って和彦の方に振り向いた 「すいませーん! これ何処へ置きますかー⁈」 引っ越し業者さんが玄関の方から呼んでいる 「あ、はーい 今行きまーす!」 景子が返事をし、 二人は慌ただしく玄関の方へ向かって行った 庭の片隅で桜の花びらが風に吹かれ、サラサラと舞い落ちていた
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