窓辺の彼女

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   気がついたら君はそこにいた。  いつからか、と尋ねられてもスケジュール管理が大の苦手な僕には答えられない。  追い出さないのか、と問われてもまず僕には彼女を触れることができないし声が届いているか分からないからどうしようもないと言い訳をするだろう。  危険ではないのか、と諭されても僕は彼女に殺されるなら本望だと告げるだろう。  彼女にはそれだけのことを思わせるほどの魅力がある。  たしか、久しぶりに仕事が忙しくてくたくたになって家に帰ってきた日の夕方。職場の近くの賃貸アパートに帰ると部屋にいつもと違う気配が漂っている気がした。 一人暮らしの僕の家に他の気配があるということはとても危険なことだ。そのことに気づいた途端に冷や汗が全身から吹き出してくる。  まさか泥棒に入られたか?3階だし、鍵はかかっていた。…どこから?まだいるのか?今家にめぼしい金品はあったかな?  働ききってもう今日は一ミリも動かせません、と宣言していたはずの脳みそが活発に思考を繰り返す。  そろり、そろり、とキッチン兼廊下をすすむ。泥棒が入ったにしては綺麗なようにみえるが窓から自室に入られていたらわからないからな。とこの前久しぶりに見た推理物の探偵気分で現実的でない推理をする。  そうこうしているうちに自室の前にたどり着き聞き耳をたててみるが物音は聞こえないように聞こえ…。寝息…?なんだか小さな寝息のような音が聞こえるきがする…。泥棒じゃなくて猫でも入り込んだか?と頭の上に疑問符を浮かばせながらできるだけ音をたてないように少しずつ、少しずつ扉を開けていく…。  目に飛び込んできた光景は紛れもない「異常」だった。  僕の狭い自室の大きな窓の下で小さな少女が座り、窓辺によりかかるようにして眠っているのだ。  たしかに、この光景だけでも十分異常すぎるが(未成年誘拐や女児趣味を疑われてしまうからね…。)なによりもこの異常な光景を生み出している原因として少女から生えた翼とその美しすぎる美貌が挙げられるだろう。  美しい女性、というものはこの世にもたくさん存在するだろう。しかし、目の前の少女は「美しすぎる」のだ。光の当たり方によってゆらゆらと色が変わる虹色の長い髪の毛もそうだが、計算し尽くして配置されたかのようなパーツら一つ一つ完璧に完成されたでこの世にあってはならないものだ、と必死に僕の本能が警鐘をあげている。  しかし、僕はその本能とは逆に一歩、一歩と彼女へと歩を進め、跪くかのようにしゃがみこみ、彼女の頬へと手をのばす。  だが、その手は空をきり、彼女へは届かなかった。僕の目には彼女の頬と僕の手は重なっているように見えるが手からは一切の感覚が伝わってこなかった。  ぼおっと彼女を観察しているとふと彼女を絵にしたい、と思いついた。就職してから久しく描いてはいないが画材一式は一緒に持ってきていたはずだ。  画材は思ったよりもはやくに見つかった。彼女の前に座り込みスケッチブックをパラパラとめくる。ぐちゃぐちゃと鉛筆で上から塗られた黒い絵、大きくばつ印が描かれた少女の絵…。スケッチブックのページの7割を過ぎた頃にようやく真っ白なページが現れる。よく削り長めに芯を出した鉛筆を握りしめて僕は彼女を描き出した。  長い時間描いていたんだと思う。僕の周りに散らばったたくさんの紙を見たら分かる。昔から絵を描きはじめると時間感覚が狂うんだよなあ。とため息を付きゴミ箱を引きずってきて片付ける。 一緒に出してきて使わなかった画材に躓き転んだり、近くを救急車が通ったり、大きな音をたててしまったがその間も彼女は目を覚まさなかった。  なんのために眠っているんだろう。どうしてここで眠っているんだろう。  たくさんの疑問とともにさらに創作意欲が湧き上がる。こんなのいつぶりだろうか。大学の後半は描きたいものが分からなくなって苦労したもんな…。  …ズボンのポケットからピリリリリッと高い電子音が鳴る。スマホが鳴っているようだ。急いで出ると職場からだった。そういえば疲れて帰ってきて早く寝ようと思っていたのに逆に追加で動きまくってしまったな。そう気付くとそれまで忘れていた疲れがどっと押し寄せてくる。職場の同僚から明日の予定を聞き、スマホを閉じた後、僕は明日に備えて今日最後の行動をはじめた。  彼女とはじめて出会った日からそこそこの時間が経過したと思う。でも、彼女が目をさますことはなかった。いつも同じ場所で、同じようにすやすやと眠っている彼女。 僕は毎日1枚ずつ仕事終わりに彼女をスケッチしている。同じように眠っていても違いはある。一昨日は外に綺麗に虹がかかっていて彼女と一緒に描くと幻想的に見えたし昨日は天気もよくて暑すぎなかったからか少し口角が上がっていた。  明日、明後日は休日だから久しぶりに本気をだして描いてみようか。そう思って絵の具を出してみる。小さな箱の中にぐちゃぐちゃに並べられた絵の具を机の上に並べてみるといくつか色が足りないことに気がつく。まずは買い出しからかな。そう思いスマホで近くの画材屋を調べていたときのことだった。 「へえ、彼女の絵を描いているのか」  後ろから女性の声が響き慌てて振り返る。表の扉は閉めているはずだし足音も聞こえなかった。いったいどこから、いつの間に?そう考えているうちにどんどんと自分の脈は早くなり嫌な汗が背中をつたう。 「慌てなくていいよ、少し話をしにきただけだから」  真夜中の空のような、すべてを吸い込んでいまいそうな黒色の長髪とセーラー服を着た少女が笑う。 「そこの彼女、ずいぶんと弱っているみたいじゃないか。君たちの世界の時間の法則でみて…もってあと1ヶ月ってところかな?」  なにを言っているのか分からなかった。窓辺で眠る彼女のことを理解している存在?つまり目の前のは彼女も人ではない存在なのだろうか。黒い少女からは窓辺で眠る彼女と違い明確に恐怖を感じる。 「…か、彼女が弱っているってどういうことだ」 「そこの彼女はこの前の大仕事以来行方不明になっていてずっと皆が探していたんだ。どこかで回復して救援を待っているんじゃないかと思って魔力がいい感じに溜まっている土地を巡って今日ようやく見つけた次第だよ。」 「彼女がそんな…もうすぐ死んでしまうほどに弱っているようには見えないけど…」 「そりゃあそうだ、君は人間。彼女は天使。違う生き物だからね」  当たり前かのように言い放つ黒い少女の言葉に動揺してしまう。  本来なら信じられない言葉かもしれない。でも、目の前の、これまでの状況を理由付ける最適解として相応しすぎる。  長い沈黙のあと、ふと疑問が湧き上がった。 「…どうして僕にこのことを教えてくれたんだ?」 「君に手伝ってほしいことがあるからだよ」 「それで彼女は助かるのか?」 「あぁ、助かるさ」  そう言いながら黒い少女は台所へと歩をすすめ何かを探している。  これがいい、と一本の果物ナイフを手に取り短く何かを呟くと果物ナイフはみるみるうちに美しい装飾の淡く光るナイフへと姿を変える。 「君に死んでもらいたいんだ」  冷たい一言。ぞくり、と嫌な寒気が全身を包み、今すぐにでも逃げ出してしまいたいと感じる。 「今すぐにとは言わないし強制でもないんだ、彼女が死ぬまで1ヶ月考えておいてほしい」  怯えた僕の姿を見て申し訳無さそうに目を細め踵を返す彼女に最後に問う。 「それは僕じゃないと駄目なのか」 「天使の蘇生には天使の根源の人間の魂が必要なんだ、でも……天使が本来邪な者たちから人間の魂を守っているからなかなか他のやつらには手が出せない。でも、邪な者たちと干渉してしまった、罪を犯してしまった魂は守る義務がなくなるんだ…」  黒い少女は何かを決意したかのようにして立ち止まり、そして振り返る。 「だから悪魔の私と干渉してしまっているうえで彼女のことを知っている君の魂を使った蘇生方法にしたいんだ、それが一番元気になった彼女に負担が少ない方法でもあるから」  最後のその一言を呟いたその時だけは黒い少女はまるで悪魔だとは思わせないような、優しい表情になっていた…。  そのことに自分でも気付いたのか、少し目を逸しながら「自分でできないならいつでも私を読んでくれ」と言い残し黒い少女の姿は花弁のように崩れ落ち、暗い夜空の中に溶けていった。  僕の気持ちは決まっていた。  窓辺で眠る彼女に魂を渡したい。    大人になってからずっと空虚で退屈だった。  大人になって、子供の頃のように自由な発想も、あふれる興味もなくなってしまった僕にとって長らく創作活動は苦しいものだった。  でも、あの日彼女と出会えて世界が変わった。彼女と出会えてから、また、絵を描くことが好きだと思えた。自分の絵が好きになれた。そして、彼女のことも。だから…。  夜の町を運動不足な体を鞭打って駆ける。  無欲な上に仕事ばかりしていた僕の貯蓄を引き出し、まだ空いていた画材店に駆け込みできるだけいい画材を揃える。そして同僚にメールを一通送る。  周りの人には申し訳ないと思う、でも、今は一秒一瞬の時間が惜しい。  僕が最後に描く絵は決まっていた。  朝日の中で眠る彼女。  まだ薄暗い部屋の中で光に照らされたこの絵は人間からかけ離れた彼女の美しさを引き立てていて僕の一番のお気に入りだ。  緊張で手がうまく動かなくなるんじゃないかと思っていたが筆はまるで自我をもったかのように紙の上を滑る。  今、存在する彼女を切り取るのではなく、彼女すべてを残したい。すべての力を絞り尽くして! それからは昼夜を忘れて描き続けた。  最後の日の朝に、それは完成した。  それは今までのどの作品よりも輝いていた。  頬を一筋の涙が伝う。完成させられたことの喜び、いつからか忘れられていたその思い。  朝一で悪いが唯一の友達に電話をかける。  自分の家にある絵を額縁に入れて保存しておいてほしいこと、お礼はすること、そして…そのタイトルは「窓辺の彼女」であること。  友達は慌てた様子だった。ろくに説明もしていないのだから仕方がない。でもこの様子ならすぐに来てくれるから、絵の心配はしなくていいようだ。  椅子からたつと、目眩がした。やはり寝不足気味だったからだろうか。おぼつかない足取りで机の上に置かれたナイフを持ち上げ、窓辺の彼女に会いに行く。  ちょうど朝日がきれいな快晴の空だった。網戸から吹き込んでくる風が気持ちいい。彼女もそう思っているのか嬉しそうな寝顔だ。そんな彼女を見ていると、自分も嬉しくなってしまう…。  彼女にこちらの世界から触れられないことは分かってはいるが、万が一にも彼女が汚れてしまわないように彼女から離れる。  逆手に握りしめたナイフを高く持ち上げ、振り下ろす。ナイフはいとも簡単に体の中に滑り込んできた。黒い少女のおかげだろうか。  傷口が熱く、熱く燃え上がる。  その直後僕の体がガクン、と崩れる。  赤く染まっていくナイフへと自分から何かが吸われはじめた感覚があった。  力とともに痛みが抜けていく。  ナイフから手を離し、彼女のほうを見ると黒い少女がいつの間にか彼女の側に座り込んでまた何か口ずさんでいるようだ。ちゃんと約束を守ってくれたようでよかった。  それを確認して現世への未練が薄まったからか一気に体が重くなる。  まぶたが重い。さっきまで熱かった体がどんどん冷たくなっていく。これが死か、と思うととても怖い。でも、これが僕の選んだ道だ………。 ……ぼんやりとした最後の意識の中で眠り続けていた彼女のまぶたがゆっくりと開いていくのが目に入る。彼女の瞳は淡く優しげで朝日のような曙色(あけぼのいろ)をしていてとても彼女に似合っていると思った。  君はどんなことを考えながらこの絵を描いたのだろう。  君から電話をもらってすぐに、君の家に駆け込んだ。大学以来会っていない友人である君はいつも難しそうな顔をしていて、完璧主義で、自分で全てを抱え込もうとする。そんな君が真反対の性格の俺に絵の管理を頼むなんてことは一度も存在しなかった。  だから、君から最後の電話をもらったときにはとても嫌な予感がしたんだ。そして案の定君は部屋の真ん中で血塗れで倒れていて…。いや、やめておこう。  俺は脳裏にこびりついた彼の最期を振り払うかのように思考を無理やり切り替える。  君と向かい合うにはまだ、もう少しだけ時間がかかりそうだ。  …この絵の背景を見るからにきっと自分の家で書き続けてきた絵なのだろう。しかし、この少女は彼の部屋には存在していなかった。している方がおかしいのだが。  なら、この少女はなんなのだろうか。大学生時代の君の絵柄とは真反対と言って過言ではない優しさと光をモチーフとしているように見えるこの1枚。なにか、彼が変わる要因があったのだろうか。そして、その要因を表しているのが彼女なのかな…? 「先輩!」  背後から僕を呼ぶ声が聞こえる。 「そろそろ今日も開ける準備しましょう」  もうそんな時間になっていたのか。「ごめんごめん」と頭をかき準備をする。 「先輩あの絵好きですよね、あの天使?みたいな絵」 「うん、好きだよ。俺の好きな画家先生の最高傑作なの」  そう言って俺はあの絵を描ききった君の晴れ晴れとした笑顔を思い出す。きっと君にとっても最高傑作だったんだろうな。 「あ、先輩ガムテープ足りなくなっちゃったから裏行ってきますね」 「今鍵かかってるから…ごめん、鍵落としてきたみたい」  ポケットをまさぐり鍵がないことに気付き飛びはねてみるが俺の体からは高い金属音は返ってこなかった。  すぐに帰ってくるからと言い残しさきほどの展示エリアに引き返す。この個展もあと数日で終わる。周りに無理を言って入れてもらった匿名の札がかかった彼の絵ももうすぐ倉庫で眠ることになるだろう。  鍵は彼の絵の近くの廊下に落ちていた。あったあったと拾い上げ全ての鍵があることを確認してからポケットにねじこむ。そして立ち上がった時…彼の絵の前に二人の少女が立っているように一瞬見えた。  …貧血だろうか。そうだ、最近はまた一段と忙しかったからだ。だからそろそろ休暇と称して温泉旅行にでも行くべきなのだろうか。今なら誰も僕を責めまい。  逃げるように、走り去る。自分でも分からない謎の恐怖心が溢れ出す。冷や汗を背中に伝わせながら裏に駆け込むと後輩が驚き駆け寄ってかる。 「先輩!?そんなに走ってきてもらわないといけないほどじゃなかったのに、大丈夫ですか?」 「…いやー、かわいい後輩を待たせたらいけないと思ってさ。さあさあ!さっさと準備しちゃおう!!ついでにリフレッシュで今晩いい肉食べに行こう、奢るから!!」 「えっほんとですか!?」  必死のごまかしで怪しまれるんじゃないかと思ったけどお肉に釣られた後輩は嬉々とした表情ですぐに準備に戻っていった。夜になる前に1回コンビニかどこかでお金をおろしておく必要がありそうだ…。  …一人静かになった部屋の中でお茶を入れ、椅子に座る。目の前の恐怖から逃げ切って安心しきったのか大きなため息が漏れてしまう。 「…あいつ、女運ねぇなぁ。」
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