冷たいあの人

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 それから一度、私は母に「明日からのお弁当、お母さんが作ってください」とお願いをしてみた。「子どもはホラ、栄養とかしっかり摂らないと成長しないから」と更に(もっと)もらしい理由も付け加えて、母に言い寄った。  私は、いつもの母の口癖であしらわれると思っていたのたが、思いの外、母はその日だけは優しい顔をして「しょうがないわね、ちょっと待ってなさい」と言い、そそくさとキッチンの奥の方へと向かった。  私はちょっと感動した。いつも融通の効かない母が、私の為に動いてくれていることが、なによりも嬉しかった。  ただ、そう思っていたのも束の間、母はキッチンに置いてあった一冊の油まみれのノートを手に取って、私に差し出してきた。  「これは私が書いた料理のメモです。これを見て自分でお弁当を作ってちょうだい」  私は、いよいよあの母がお弁当を作ってくれるかもしれないという喜びと期待を抱いていた。けれど、母は私のそれをいとも容易く踏み(にじ)ってきたのだ。初めて母と私の間に張っていた細い糸がプツンと切れた瞬間だった。  私は言葉にならない言葉を母に浴びせ、油に濡れた古いノートをビリビリに引き千切った。  「アンタ何してんの! 辞めなさい!」と母から(いさ)めの言葉が聞こえたが、それでも私の(いきどお)りの気持ちを抑えることが出来ず、ノートを全て破った後も、キッチンの棚にあったもの全てに八つ当たりをして、床全体に散らかしてやった。  「こんな家出てってやる!」と私は捨て台詞を吐いて、人生で初めての家出をした。  靴を履いて玄関のノブに手を掛けた時、キッチンの方から「勝手にしなさい」と母の小さな声が聞こえてきたが、私はそれでも聞こえないフリをして、バタンと家を飛び出した。
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