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洗面所で手を洗ってリビングに入ると、酢飯の香りが鼻に入って来た。ダイニングテーブルの上には刺身や海苔が並んでいる。
「新鮮な盛り合わせがあったから今日は手巻きにしようと思って。凌空が好きなサーモンもあなたの好きなマグロもあるのよ。今まで家事をさぼっていた分、今日からまた頑張るね」
彩香はそう言って笑みを浮かべ、酢飯の入った桶を運んできた。
俺はまだ、帰宅してから一言も喋っていない。それに気づいたところで、彩香にどのように声を掛けていいのか分からなかった。
それもそうだろう。三日前までは二階に閉じ籠っている彩香を気にしながら適当に買ってきた夕食を食べ、寝る前は缶ビール片手にプロジェクターで壁に投影した莉緒の姿を見ているだけだったのだから。
「さぁ、食べよっか。何がいい? ひとつめは私が巻いてあげる」
彩香は海苔を手に語り掛けてくる。
そろそろ会話をしなければと思った時には声を出していた。しかし、その言葉は彩香の質問に対する答えではなく、今起こっている現実を否定するものだった。
「本当に……莉緒が生まれてくると思っているのか?」
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