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プロローグ
ある日の午後だった。
放課後の教室。机に突っ伏して寝ていた俺は、一人の女子の声で目が覚めた。
ぼんやり霞む視界。五時を指そうとしている時計を見上げた。
その視界の左端に彼女は立っていた。
――水城有彩(みずしろありさ)。
生徒会の副会長をしていて、先生の信頼も厚い。文武両道で完璧な人間。
彼女が、珍しく教室で一人、佇んでいた。
握りしめられていた黒いハンカチは、彼女からは想像できないマイナーな歌い手のグッズ。
だけど彼女は、歌は上手いけど音楽業界に興味は然程ないはずだった。
それも、マイナーな歌い手のことなど知らないと思っていた。
ふと彼女は目を瞑り、口を開いた。寝ている間にも聞こえていた声が小さく教室に響く。
美しい旋律。彼とは似ても似つかない声なのに、なんて綺麗――。
……正直に言おう。
俺はこの時、彼女に見惚れていたんだ。
まるで完璧な彼女が、放課後の教室で一人。真っ直ぐどこかを見つめるその横顔。苦し気に歌われた曲。
ぎゅっと窓枠を握りしめて、白い手が赤くなるくらいにタオルを握りしめた手。その腕に見えた、黒い蝶のチャームが付いたブレスレット。
「――歌い手の蝶、好きなの?」
ただ知りたくて、近づいた。俺と彼女以外いないこの教室で、その一歩はあまりに大きな意味を成した気がした。
この時、彼女がもう少し賢い頭を持っていたら。
あるいは、立ち回り方が上手かったら。
……きっと先の未来は変わっていたかもしれない。
彼女が振り返る。その真っ直ぐすぎる目が、俺を見て揺れた。
そして少し恥ずかしそうに、実はね、と笑った。
その日僕は、彼女に恋をした。
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