北へ。

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 この線路に、終わりなんてなければいいのに。  帰りの新幹線に揺られながら、萌葱は遠くの景色を見つめた。  先程まで、悠々とした田園と新緑の山々がそこにはあった。ミニチュアのような可愛らしい民家は、見慣れたものと違う屋根の形。そして、その風景にちらほらと桃色の美しい花を見つけるたびに、ちいさく心を躍らせた。  早々に眠ってしまった瑠璃の重さと温もりを肩に感じながら、萌葱はあまり動かぬようにそっとスマートフォンを掲げ、カメラアプリを起動した。カシャン、と味気ない音がして、それらが思い出になっていく。名残惜しくて、ケースに挟まっている花びらをそっと指で撫でた。 「もっと桜、見たいなあ」  日は暮れようとしており、遠くでは夕日が空を紫に染めながらゆるゆると燃えている。代わりに、反対からは底知れぬ闇が迫り来て、あっという間に僅か残った希望をとっぷりと覆い尽くした。  景色は段々と灰色に変わっていく。無機質なコンクリートジャングルを彩るのはぎらついた広告掲示板ばかりで、桜の蕾は固く閉じたまま。彼らは、ここで生まれ育った。  ああ、終わりだ。全部、終わってしまうのだ。駅についたら、きっと見知った改札をくぐり、何もかもを知るあの町へと帰るのだろう。そして、死ぬまで、ありふれた幸せな日常を繰り返す。  ここにはもう、緑はない、桜もない。代わりといっては程遠い、下品なネオンライトが滲んで見えて、勝手に溜息がこぼれた。  春。全てのいきものが、潜めていた息を一斉に吹き返す季節。箱根の山々は生命に満ち溢れていて、窓から身を乗り出して空気を吸うといのちの味がした。雄々しく茂る緑と、儚さを感じさせぬほど鮮明に咲く桜の色は、生きていることを強烈に実感させる。  観光地の車内は込み合っていて、知らない言語ばかりが頭上を飛び交った。別の世界に迷い込んだようで急に不安になり、年甲斐もなく瑠璃の袖をぎゅっと引っ張ると、彼は微笑みながら「ここにいるよ」と親指で萌葱の手の甲をなぞった。  ほんのわずかな、甘い接触。それだけで、自分のうすい皮膚の下を流れる血は熱くなる。どく、どくと音がした。生物の授業で習った、血管は心臓へ繋がっているというのは本当なんだな、と思った。  急な山道を折り返しながら進む列車は、普段使っている地下鉄とは全く別の乗り物に感じた。ただ人を運ぶため、死んだように走るそれとは違い、確固たる意志を持って頂上へと登り詰めていく。  何度もくねくねと、行ったり来たりを繰り返す。ゆっくりゆっくり、一歩ずつ進む姿は、自分たちの関係に似ている。  列車は急なカーブを描き、その瞬間、車内に風が吹き込んだ。半分空いた窓から流れ込んできたそれは、一片の花びらを連れて舞い上がる。誰もそんなの気付いていなかったけど、自分と瑠璃だけはしっかりと見ていた。それで十分だった。言語に入り混じって空中を浮遊した薄紅色の欠片はやがて、居場所を見つけたように萌葱の頭にひらりと乗った。 「動かないで」  密着した車内で、瑠璃が言った。今までで聞いたどんな声よりも一番近いところで聞こえた。うごかないで、その6文字を胸に刻んだ。  彼の太い割には器用な指先が花びらを掬う。もうもうと湯気が出る、赤子の柔らかな頬に触れるように、優しく慈愛に満ちた手つきで萌葱の前髪を掠めた。ほんのささいな、そんなことでもやはり、そこの神経だけが敏感になったようにびりびりと震える。  瑠璃が桜を親指と人差し指でつまんで差し出してみせたので、萌葱はおずおずとそれを受け取る。「春だねえ」と言った。愛してる、と思った。  花びらをスマートフォンとケースの隙間に挟み込むと、彼は満足そうにうんうん、と頷いた。 「本当に、まごうことなき、春だ! すげえね、都内からそんな遠くないのに。父さんたちも来られればよかった」  車窓のすぐ脇では渓谷と木花のコントラストが美しい。萌葱を扉の間に挟み、窓におでこをつけんばかりにそれを眺めている瑠璃は、ひとつゆっくりと呼吸した。耳元に吹きかかる鼻息が擽ったい。誰かの吐いた息がこんなにこそばゆいなんて、知らなかった。家族で来ていたらきっと、こんな経験をすることは一生なかったと思う。だから、二人だけで良かった、とこっそり父の上司に感謝した。どこまでも親不孝な息子だった。  この桜が永遠に続けばいい。そうしたら、僕らはこうやって曖昧な存在のまま、あるべき素直な心でいられるのに。儚いからこそ美しい、だなんて残酷なことを一体誰が言いだしたのだろう。そいつはきっと、地獄に堕ちたに違いない。  車内に立ちこめる熱気のせいか、はたまた彼との距離のせいか。いやにあつくて仕方がない耳朶を冷やすように、萌葱はそっと窓枠に身を寄せた。列車はますます上へと進む。頂上へ近づけば、それだけ終わりに近づく。このまま時が止まってしまえ。けれど願えば願うほど、景色は残酷に流れていく。頬に硝子の冷たさと振動を感じながら、満開の花々を前にそっと目を閉じた。 「なあに? もえぎ、そんなに桜が好きだった?」  よく寝ちゃった、とあくびしながら瑠璃が大きく腕を伸ばす。「喉が渇いた」というので窓際に置いたペットボトルのお茶を渡すと、喉仏をごくごく動かしてそれを飲み切った。 「ううん、そんな別に。東京で見てるのはなんか、ああ今年も咲いたなあって感じだったけど。でも箱根のはスゴイ」 「んだねえ、なんか圧倒されたよね。木とか山とかも生きてるって感じ。おれ今まで、なんで信号って緑なのに青って言うんだろうって思ってたけど、分かったかもしんない」  青と緑は似てる、と彼は確信を持ったように呟いた。萌葱も「そうだね」と同意した。  それらは形は違えどよく似ている。雄大で、あるがままに、澄んだり澱んだりしながらただ存在する。そこでは全て同価値で、故に生も悪もない。境界すら、ない。輪郭なんて、所詮人間の作った単なる概念に過ぎないのかもしれない。芦ノ湖も、二子山も、富士山も、そして僕たちも。  瑠璃と萌葱は双子だ。けれど、そんなに似ていない。それもそのはず、だって二卵性双生児なのだから。  瑠璃の髪は柔らかく、どちらかと言えば栗毛色に近いけれど、萌葱は芯がしっかりとした黒檀の髪をしている。目元だって、ぱっちりと緩いカーブを描く瑠璃の顔立ちは親しみやすさがあると評判で、対して萌葱は性格が滲み出る奥二重だった。  双子です、と自ら言う前に誰かに紹介され、その度に「似てないね」と笑われる。佐藤さん宅の、瑠璃と萌葱。  容姿も性格も、正反対の二人。けれど、互いによく似た痛々しいほどの感情を抱いている。口にしたら罪になる、抱えきれずに罰となる。この旅は、その罪を浄化するために存在していたはずだった。ただ存在する、それだけのことすら赦されない二人が生きるために必要な別れの儀式。  本当は瑠璃の専門学校卒業祝いと、成人祝いを兼ねて家族みんなで行くはずだった箱根は、父の急な仕事で二人だけになった。  いい歳なんだから、アンタ達だけでも大丈夫でしょう? 母にそう言われた時、これは神様がお与えになったチャンスなのだと思った。  ちらり、と彼の方に目をやると「ええ、男ふたりで行くとかマジかよー」と言いながら目尻をポリポリと掻いた。嬉しいときの癖。産まれたときから一緒の僕らは、互いのことなら何でもみんな知っている。 「いいよ、行ってくる。お仕事頑張って。お土産わんさか買ってくるから待っててよ」  萌葱は喜びが溢れてしまわぬように、なるだけ注意を払って平然とした態度で言った。  瑠璃と、旅行。  嬉しいのは一緒に出かけられるからだけではない。旅先だと、僕らは他人になれるからだ。  好きな人のことを生まれる前から知っているのは、そしてあわよくば同じ墓に入れるのは、確かに素敵なことだろう。でも、それだけ。途中の過程はどこまでも空っぽで、永遠に埋まることがない。  遺伝子だってこんなに近いはずなのに、自分たちの間には決して溶けることのない氷壁が存在する。それはすべすべと透明で、一見すぐ壊せそうにも見えるが、よくよく目を凝らすと中には世間や倫理といったものが詰まっている。 この氷の溶かし方を萌葱は知っている。たった五文字、伝えればいい。それだけの言葉で、小さな灯がだんだんに大きくなり、やがて全てを焼き尽くすということをなぜだか理解していた。  愛してる、それは罪。彼が優しく触れるたび、窓側の席を譲ってくれるたび、舌の先まで出かかる炎を嚥下し腹に閉じ込めた。  けれど、そんな難攻不落の壁にも唯一抜け穴があることもまた、彼は知っていた。それに気付いたのは中学3年生の丁度、半袖に衣替えした季節だった。修学旅行中の京都であんみつを頬張っていた時、店主の婆さんが言った。 「あんたら、お揃いのお守りを買うたんやな。えらい仲良おして。親友なんやね」  このくらいの歳の友達って一生の仲やさかい、大事にするんやで。彼女は綿生地のエプロンで手を拭きながら、暖簾をくぐり厨房に戻っていく。 親友。萌葱は白玉と一緒にその言葉を咀嚼した。それはいつもより甘い響きだった。離せないのではなく、離れない縁。努力をしてつかみ取るその立ち位置は、普段ならば辿り着けない場所にあり、なんだか照れくさく誇らしい。そして何より、親友にはどろどろとした罪の味が一切しなかった。  そのあと、店のトイレで二人ははじめてキスをした。だから初キスはレモン、というのはあながち間違いではなかった。あの店の消臭剤は確かに柑橘の香りだったから。  思えばあれが、気持ちをはっきり自覚した瞬間でもあった。なんでそうなったのかは思い出せないが、身を寄せ合った瞬間にお守りについていた鈴がちりん、と鳴った音だけは今もはっきり思い出せた。 「東京でも、桜は咲くよ」  瑠璃は残酷な真実を語った。  そうだ、桜が咲いている間は他人でいられると思い込んでいるだけで、実際はもう二度と愛し合うことはないのだ。そのための旅行だったではないか。 あの儚いと謳われる花でさえ永遠に咲くのなら、自分たちもずっと一緒にいられるんじゃないか。それは願いに似た祈りだった。現実は違う、桜は日本中どこでも咲くし、いずれ散る。 「東京のは、僕が見たい桜じゃない。それに、どうせすぐ散ってしまうんだから」  東京は、萌葱にとって地獄だった。そこが、彼らの生まれた場所だったから。自分たちの血の繋がりを、ありありと自覚してしまうから。双子は学校にしかいない。地域にしかいない。でも、逆に言えばその土地では一生誰からも双子であり続ける。他人になることは、生涯ない。  瑠璃は困ったように溜息をひとつして、目尻を擦りながらスマートフォンを弄った。困らせてしまったか、と気付いた時には遅かった。もうすぐ駅につくというのに。ずっと堰止めていた涙が溢れそうになって、ぐっと頬の内側を噛んだ。 『間もなく、東京。東京』  無機質な男性のアナウンスを聞きながら、慌てて荷物を掴み立ち上がる。買いすぎたお土産がやけに重く、持ち手のビニルが掌に食い込んで苛立たしい。 ああ、これで全部終わりなんだな。思いながら新幹線から一歩踏み出すと、その途端に瑠璃がキャリーケースを掴み、ぐいぐいと引っ張って歩いていく。 「え、ちょっと待って、ルリ。何、離してよ」  ダンジョンのような構内で、エスカレーターを下り、上り、改札を出て、入って。もうここがどこだか分からない。ただ一つ、家に帰るための地下鉄に乗るのではないな、ということだけ分かった。  瑠璃は何も言わない、こちらを振り向かない。ならば萌葱にできることは、この二人を繋ぐキャリーケースから決して手を離さないことだけだ。ただひたすらに、亜麻色の丸い後頭部を眺めながら足早に歩いた。 「やば、そろそろ時間だ。もえぎ、走って」  大の大人が馬鹿にでかい紙袋とキャリーケースを持って全力疾走しているのは、見るに堪えない絵面だろう。でも、萌葱にはどうでも良かった。マジでやばいと言いながら笑う瑠璃の顔を見て、自分が好きになったのがこいつで間違いなかったなと、ただそれだけを想った。 「あれ、そこの扉から入っちゃおう」  わかった、と訳も分からず答えた。白とエメラルドの車体に滑り込むように入った瞬間、ドアが閉まりチャイムが流れる。  はあ、はあと荒い息を整えながら、壁にもたれて二人で笑い合った。まだ3月だというのに背中はシャツが張り付くくらい汗をかいていて、前髪もべったりと額にまとわりついている。ぬるりと車体が動き出した振動を感じながら、萌葱は瑠璃の背に抱き着いた。彼のそこもやはり、じんわり湿っていた。 『本日も、東北新幹線をご利用くださいましてありがとうございます。この電車は、はやぶさ号新青森行きと、こまち号秋田行きです。全車、指定席で、自由席はありません。次は、上野に止まります』  「一体、どこに行く気なのさ」  あえて、顔を見ないままに聞いた。今、目を見合せたならば、きっと泣いてしまうだろう。 「どこって、北だよ。桜がまだまだこれから、うんと咲くところ」  だって萌葱、見たいって言ったじゃん。彼の声も少し震えていた。「うんそうだ、確かに言った」と僕は答えた。 「次、上野だよ。今ならまだ、間に合うけど、どうする?」 腰に回した手に彼が触れたので、どうしても握りしめたくなった。拳を開くと、がさりと土産の袋が床に落ちる。空いた手で、力強く瑠璃の指を絡め繋いだ。 「ねえ、指定席なんでしょ。早く座ろうよ。僕、へとへとだからすぐに寝ちゃうかもしんないけど、ちゃんと最後まで一緒にいてね」  わかった、の代わりに彼は「13のAだよ」と答えた。それは殆ど愛してるに近かった。  北へ、北へ。誰も僕たちを知らない場所へ。はやぶさはただ、進み続ける。
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