お仕事⑧「小説家の由野くん」

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お仕事⑧「小説家の由野くん」

僕の仕事は小説を書くことだ。 元々は出版社の社員で、むしろ 小説家のサポートをしていた僕が、 ある日、担当の作家さんに 「由野くんも書いてみたら?君の言葉のセンス、 小説向きだと思うけどな〜」と言われ、 なぜかその気になった僕は、 それでも自分の出版社の公募は さすがに恥ずかしいので、こっそり他社の公募に 短い小説を出してみたところ、 あれよあれよと選考を突破し、 大賞を受賞してしまった…。(照) さすがに職場に話さないわけにはいかなくなり、 自分の会社でも作品を出版することで了承を得て しばらくは会社員と作家の 二足の草鞋で働いていたのだが、 小説雑誌の連載も担当することになって、 作家の仕事が増え、両立が難しくなった僕は 出版社を退職することになった。 晴れて?小説家となった僕だが、 いざ自宅で書いてみると、 どうもはかどらない。 元々通勤の途中や、作家さんの所へ伺った帰りの カフェなどで原稿を書いていたクセが どうも抜けないみたいなのだ。 通勤で電車に乗ることがなくなってしまい、 書くための部屋を借りることも考えたが、 少し雑音がする場所が集中できるようだ。 そこで、自宅から10分ほど歩いたところにある 喫茶店で書くようになった。 そこは、カフェというよりは純喫茶、と言った方が ぴったりな所で、建物も中の調度品も古めかしい。 1本の木から作られた重厚なカウンターと、 クラシカルなテーブルやイスが5.6席。 老齢のマスターが入れるコーヒーは香り高く、 クラシックが静かに流れていて…。 「いらっしゃいませ。あ、由野くん」 こぼれるような笑顔で僕を迎えてくれる、 マスターのお孫さんでもある、 ウエイトレスのあやさんに癒されつつ、 今日も僕は執筆活動をしていた。 「由野くん、コーヒーのおかわりは?」 「あ…お願いします」 あやさんの声かけが、また絶妙なタイミングで 気分転換にもなりやすい。 僕はちょうどひとつの章を 書き上げたところで、ひと息ついた。 「今、話しかけても大丈夫?」 「はい、大丈夫です」 「この前最終話を迎えた小説だけど…」 「あ、過去帖ですか?」 「うん。すごく面白かったから、最終話が なんだか寂しくて」 あやさんは僕の小説をよく読んでくれて、 感想を言ってくれるのがまた嬉しかったりする。 「続きは…書いたりとかはないの?」 「実は…」 その小説は好評で、続話の依頼を受けているが、 まだ発表前だった。 あやさんは、あっという顔になると 「まだ、シークレットなのね?」 「はい…」 「でも、きっと嬉しい展開なのね。 由野くんの顔でわかっちゃった」 えっ…(焦)顔に出ちゃってるのか、僕…? あやさんはクスっと笑うと、 「嬉しいお礼にこれ、サービス」と コーヒーと共にチョコクッキーを置いて カウンターに戻っていった。 (お店のスイーツはあやさんの手作りだ。) 程よい甘さと、ホロホロと口の中でほどけるような チョコクッキーは絶品で、帰りがけ、 僕はお土産にそのチョコクッキーを 買って帰ることにした。 「こんなに買ってくれるの?嬉しい〜」 僕は仕事をするというより、 あやさんに会いたくてここにきてるのかもなあ…。
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