鷲と人間の話

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鷲と人間の話

    9d4cc184-b6bf-4a75-9500-be68e7f34508    空が一瞬にして暗闇に覆われるほどの大きな翼。鉤型に曲がった凶器の大嘴。獲物の身体を一瞬で竦ませる王者の瞳。人間はその大鷲を夜ノ帳(ヨルノトバリ)と呼んで恐れた。その大鷲は僕の(ツガイ)だった。  僕は彼をトバリと呼んだ。トバリは僕が呼ぶとどんなに離れていようが必ず僕たちの巣へと戻ってきた。  巣の外で帰りを待つ僕の傍に降り立ったトバリはその大きな嘴をすりと僕の頬に摺り付け、そして僕たちは寄り添いながら巣の奥へと籠った。  トバリは無意味な狩猟はしなかった。僕たちが一日生き延びるのに必要な分だけの肉を狩り、栄養のある果実を咥えて戻ってきた。僕はその肉を食べられる大きさに切り、調理し、果実の皮を剥き、すり潰した。晴れた日にはトバリの背に乗って空を飛び、雨の夜にはトバリの落とした羽根の枕で休んだ。  僕には名前が無かった。枯れ枝のような細い手足でこの森にやってきた。名前も無く思い出も無い僕に、トバリは空ヶ白(ソラガシラム)と名付けた。鷲は朝起きるといの一番にシラム、と僕の名を呼んで頬に嘴を摺り付けた。  僕たちは番だから愛を営んだ。巣の奥の暗闇で、トバリはともすれば凶器になる嘴と舌を器用に使って僕の湿りを促した。僕もお返しに普段はトバリの肛門の内側に隠されている陰茎(ファルス)を小さい口いっぱいに頬張って形を造り、僕の肛門へと導いた。鷲の交尾は本来生殖器を擦り合わせて終わるだけ。時間を掛けて営みなどしない筈なのに、トバリは僕が身体を震わせてトバリの精子を全て飲み込み終えるまで、僕を愛し続けた。  僕たちは春に小さな卵を授かった。種の違う僕たちにも祝福が訪れたとトバリは喜び、そんなトバリを見て僕も幸せだった。  卵を抱えた僕が不安で眠れずに夜を明かした時は、トバリの翼に包まれて空が白むのを寄り添って見つめた。シラムは愛されているから大丈夫だ、とトバリは瞳を柔らかくした。  やがて僕にしるしが来て、いよいよ卵を取り出そうという日。  数ヶ月の間に覚悟を決めた僕にはもう悩むことなど無かったけれど、肝心のトバリは巣の中と外を行ったり来たり落ち着かないでいて、僕は痛む腹に顔を顰めながらそんなトバリの姿に笑った。  腹から出てきた卵は交代で温めた。トバリはその大きな腹毛で包み込み、僕は何重にも布にくるみ胸に抱いた。どちらかが温めている時はどちらかが身体を休め、寝不足の日々を乗り切った。孵化した卵からはリンデンの蜂蜜のような色の、ふわふわの綿毛が顔を出した。僕とトバリは疲れ切った顔を見合わせ、幸せな微笑みを贈りあった。  (ヒナ)は日に日にやんちゃぶりを発揮した。巣から出てはいけないよ、と戒める父の後をなおも追おうとその小さな脚を動かすから、僕はヒナを抱いたまま食事の支度も掃除も洗濯も出来ずに途方に暮れた。目を離せばヒナは巣を出ようと試みる。僕はトバリが猟に出掛けている間、辛くて何度も泣いた。  僕が抱きかかえられないほどに成長したヒナは、ある日僕がついウトウトと昼寝をしてしまった隙に巣から飛び出てしまった。目を覚ました僕は、ヒナの姿が見当たらないことに気付き血の気が引いた。僕は悔やんだ。目を離さなければ、無理にでも抱いていれば。猟から戻ってきたトバリに泣きながら謝った。  トバリは僕をちっとも責めなかった。ヒナも大きくなったんだ、そうそう危険な事も無いだろう。すぐ見つけてくるからシラムは巣で安心して待っていろ。トバリはそう言って大きな翼を広げた。  どのくらいの時間が経っただろう。  ドォォオンッッ…  大きな音がして辺りの鳥たちが一斉に羽ばたいた。森の向こうから鼻をつくような硝煙の臭いがした。それは銃の音だった。人間が森に立ち入ったことを示していた。トバリとヒナは無事だろうか、僕は巣の外でひたすら帰りを待ち侘びた。  夜になって朝がきても、トバリとヒナは帰ってこなかった。僕は膝を抱えてただ涙を溢した。また夜がきて、空が白んだ。僕は祝福などされていなかったと泣き腫らした目を閉じた。  すりと頬を撫でる感触ではっと目を開けた。トバリだ。トバリが帰ってきた。トバリの背中ではヒナがすやすやと眠りについていた。トバリありがとう、僕はトバリの首に抱きついた。  その時、僕の掌いっぱいにぬる、としたものが触れた。トバリ?僕はおそるおそるトバリの瞳を覗き込んだ。トバリはその瞳に微笑みを浮かべると、どう、と倒れ込んだ。トバリの足元には血溜りが出来ていた。  ヒナに襲い掛かろうとした肉食獣、それを狙う人間、ヒナを庇ったトバリ。  いくら大鷲とはいえトバリも限りあるいのちだ。鉛の弾はトバリのいのちを抉った。夜ノ帳を撃ってしまったと人間は恐怖に震えていたらしい。トバリは早くこの森を立ち去れ、とだけ人間に伝えたそうだ。人間はすべてを置き去りにして逃げるように走り去ったと、のちに森の住人たちは口々に言った。  トバリの血は止めても止めても溢れ出した。シラム、よく聞け。生気を失ったトバリの瞳が最後の力を振り絞った。  俺が死んだら、俺の肉を焼いて食え。    トバリは死んだ。    僕は言われた通りにトバリの羽毛を毟り、肉を断ち、焼いた。僕の力を強くするために。ヒナを守り抜くために。僕はトバリの肉を食べた。僕は泣かなかった。    これは昔々、僕に夜ノ帳(ヨルノトバリ)という番の大鷲がいた頃の話だ。                          おわり
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