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狼と死神の話
一人の男が歩いている。
男は黒いローブのフードを目深に被っており、その表情は伺えない。
屋台が立ち並ぶ賑やかな通りの裏側を、品物を運んできた荷車だの売り物にならない腐った肉の塊だのを器用に避けながら歩いている。
店の主達も買い物に来た客達も売り買いに夢中で誰もその男には気付かない。屋台と建物に挟まれたその隙間は確かに薄暗くはあるが、それでも誰かが男に気付けば恐怖の声を上げる筈だった。
男の足元には影が無かった。
そんな様相にも関わらず、男の存在は誰の目にも触れられない。屋台の通りは喧噪で溢れていたが、男の周囲だけは幽寂に満ちていた。
男は、死神である。
今も古びたアパートの一室で、僅かな惣菜を売って生計を立てていた老婆の命を狩ってきたばかりだ。
死神は多くて日に十数件、人の目には見えない大きな鎌を振るう。今日は老婆を含めて十二件の狩りを終えた。
──今日は、あと一件で終わりだ。
通りを抜け、町を出た向こうの森まで行かねばならない。死神は黙々と足を動かしていた。外門の憲兵に咎められることも無く町を後にする。長い長い一本道の先には黒々とした森が待ち受けていた。今日の最後の仕事は、あの森に住む怪物の命を狩ることだった。
誰もが怪物と恐れるそれにも寿命はある。死神はそれの姿を探した。
死神の気配を恐れたのか、森の中には動物の息遣いひとつ聴こえない。当然歓迎されるわけもないのだ。
死神はフードを深く被り直す。それさえ狩ったらさっさとこの森を去ろう。
暗闇の奥に、ギラリと何かが光る。ざっという音と共に茂みが震えたその瞬間、死神の喉元めがけまるで熊のような体躯の黒い塊が襲い掛かって来た。
──こいつか、
死神は手にした大鎌をぶん、と振り降ろした。黒い塊は意に介することも無く大鎌の刃先を牙で受け止めると横に首を振った。死神の手から大鎌が飛ぶ。バランスを崩したところに黒い塊が覆い被さる。死神は肩を押さえ込まれ仰向けに倒れ込んだ。
「そんな玩具みたいな鎌で俺を殺しに来たとでもいうのか」
黒い塊の怪物(それ)──黒狼はせせら笑った。
──違う、殺しに来たわけじゃない。お前はもう命の限界が来ている。私は死に逝くお前を迎えに来ただけだ。
死神の言葉に黒狼は、はん、と鼻を鳴らす。
「俺の命が限界だと?誰が決めた。俺はこの通りピンピンしてるわ。貴様の骨折り損だ、残念だったな」
──死に逝く者は皆そう言う。
「では何か?お前には視えているとでも言うのか?俺の命の限界が」
──視えは、しない。私はただ言われた通りに終わる命の元へ向かうだけだ。
「視えない者にこき使われるなんざお前も難儀だな。面白い、気に入った。俺のところで休んでいけ」
黒狼は死神の身体の上から退くと、ついて来いとでも言うかの様に鼻先をクイと上げた。
何の因果だろう命を狩ろうとする者に気に入られるとは。早くこの狼の命を狩って今日の仕事を終えようと思っていたが、死神は急に何もかもを手離したいと思った。今日も、明日も、そのまた明日も。永遠に続く命狩りは死神から代償に何を奪っていったのだろうか。自分の中に巣喰う虚無感。
死神の虚無感など誰も憐れんでなどくれやしない。この黒狼だってどうせ一時の気紛れだ。死神はローブに付いた土を払い落し、無言で立ち上がった。
黒狼の住処は森の端にある急な岩場の隙間にあった。
食い散らかされた獲物の骨があちこちに捨てられ、心ばかりの藁が敷いてあるだけの粗末な住処は、森の怪物と恐れられる黒狼にしては随分と物寂しいものであった。
「死神がこの森をうろついてるなんて物騒だからな。ほとぼりが冷めるまでここにいろ」
黒狼は顔を歪めた。口から大きな牙と長い舌がちらりと覗く。笑っているつもりの様だ。
黒狼は岩場の高みへ登ると、森中に響き渡る遠吠えをひとつした。町にも届くこの遠吠えが、怪物と恐れられる所以だ。あの遠吠えを聴いてはいけないよ、喰われるからね、と子供達は耳を塞がれる人々の作り話。この遠吠えは実は黒狼の哀しみなのかもしれない、と死神は思った。
黒狼はねぐらへ戻ると欠伸をして身体を折り曲げ、寝る体勢に入った。休んでいけとは言われたが、正直死神が身体を横たえる隙間すらない。
戸惑いの気配にゆっくりと片目を開けた黒狼は、
「ここで寝ればいいだろう」
と自分の丸めた腹の隙間を示した。
死神は黒狼の腹に頭を乗せ、決して心地の良くはない硬い毛の間に埋もれて目を閉じた。硬い毛がちくちくと肌を刺してはくるがそこは温かく、死神は始めて誰かに寄り添われることのぬくもりを知った。たとえ黒狼の気紛れだとしても、この時間が欠けた死神の心を埋めてくれるような気がした。
残夜のひんやりとした空気に変わり、死神はふと目が覚めた。寒くはなかった。死神の身体は黒狼の大きくて長い尾に包まれている。尾は死神を強く抱き込もうと、がさりと動いた。
──すまない、起こしてしまったか。
「いや、俺は常に浅くしか眠らない。気にすることはない。お前こそ寝心地が悪かったか」
──いや、
「…お前はそうやってずっと一人だったのか」
──そうだ。死神として歩き始めてから、ずっと一人だ。
「そうか」
黒狼は一言そう言うと、首を起こして死神の顔をペロリと舐めた。
「お前はもう命を奪わなくていい。もう死神を辞めていい。俺に喰われてお終いにしちまえ」
それもいいかもしれない。こいつになら私は喰われてもいい。
死神は度し難い胸の痛みに耐えながら長い歳月を命を狩る為だけに生きてきた。だがここで黒狼に喰われることによって終止符が打たれるのなら、それも幸せなのかもしれない。死神の中の虚無感が満たされていくのを感じた。
──喰ってもらっても、構わない。
死神は黒狼の身体の下で目を閉じた。死神を喰らうことで、もしかしたら黒狼の命が狩られずに済むかもしれない。そう思うと、死神の心は晴れ晴れと軽くなった。
熱く濡れた舌が死神の渇いた部分を潤す。お互いの欠けた心を分かち合い、飲み込み、共鳴させてゆく。手離そうとした生の証を黒狼によって埋められていく。
「辛いか」
──つら、い
「苦しいか」
──くるしい、
やがて獣特有の濃い体臭が、死神の身体を温めてゆく。背中に感じる荒い息遣いに、死神は苦しさと痛みと、喰われる歓びを知った。
「温かいな、お前の中は」
そうか。私も、温かいのか。死神が泣くなど誰が信じるだろう。だが確かに頬を伝って落ちていくのは、死神自身の涙だった。
ねぐらの外は朝の光が差している。いつの間にか寝込んでしまっていたようだ。死神は気怠い身体を起こして傍らの黒狼を見る。
命が、尽きようとしていた。
「…お前の言う通りだった、らしいな」
黒狼は、力の無い息をひとつだけ長く吐いた。
──そのようだな。
「…俺は、」
──どうした、
「…お前の事が」
──、何だ、
だがその先の言葉は、ない。
──言え。
──死ぬなら最後まで言ってから死にやがれ、馬鹿野郎。
どんなに黒狼を罵っても、その眼はもう開かなかった。
振るう事も無く黒狼の命を狩った大鎌は、やけに重たかった。森を後にした死神はまた一人、再びフードを深く被って歩き出す。
終わりのない日々がまた始まる。
終
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