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ゲシュタルトとシミュラクラの話
「ゲシュタルト、俺を捨てていけ。お前は本部へ戻れ。今ならまだ間に合う」
ゲシュタルトに手を引かれたシミュラクラは懸命に足を動かすも、体力気力共に限界を迎えていた。これ以上共に居たらゲシュタルトの足手纏いになるのは明白だった。
「馬鹿なことを言うな、シミュラクラ。俺は決してお前を離さない。お前がいなければ俺の生きる意味も無い」
「俺だって同じだゲシュタルト。お前が本部の規律に反した事が分かり厳罰を下されるとなれば、俺も生きる意味を失う」
「逃げ切ればいいのさ。俺とお前は誰からも支配されない世界へと逃げる。そこで二人で生きるのだ」
ゲシュタルトの一派は今や世界をも動かす巨大な歯車となっていた。全体を是とする彼等は部分の総和を酷く嫌い、個の思想に厳しく統制を図った。
当然統一思想の影には反発が生まれる。小さな歯車の一つに過ぎなかったシミュラクラの脅威はじわじわとゲシュタルト一派を追い詰め出した。主要三点を認識し敵かどうかを瞬時に判断できるシミュラクラの能力は、ゲシュタルトを内部から崩しかねない。
──シミュラクラを排除せよ。
本部からの指示は絶対だ。
ゲシュタルト一派によるシミュラクラ狩りが始まった。
エリア内で三点を成すものは徹底的に破壊された。三人で立ち話などしようものなら、どこからともなくゲシュタルトの精鋭が現れ彼等を懲罰室へと連行する。どのような弁解も申し開きも一切受け付けない。彼等が二度と三点を認識できないレベルまで徹底的に痛めつける。地位の高い者はシミュラクラの実態を掴む為の無情な実験体に使われ、地位の低い者は助命の代わりにゲシュタルトの犬にされ、背信行為を強要された。
シミュラクラ一派は沈黙した。体勢を立て直さなければいけない。彼等は地下へと沈んだ。表向きはゲシュタルトの大きな歯車に取り込まれ、それは全体となったかに見えた。
だがしかしシミュラクラには起死回生の作戦があった。ゲシュタルト一派の綻びを狙うべく個に働きかける一点突破の特攻、命の保証は無い片道切符。シミュラクラの為に命を投げ打てる者。
名誉あるその任務に選ばれたのは、彼だった。
そして彼は出逢ってしまったのだ運命の男に。
運命の男はゲシュタルトの一人だった。
彼もまた単なる部分であった。その為に生まれてきたしそのように教育されてきた。優秀な部分であれ。目立つ事無く乱す事無く、それが優秀な部分の有るべき姿。全体を形作る為の部分。それが彼に課された運命である筈だった。
部分が個となる時。それは個に意志が宿る時。
本部の会合に呼ばれた時だった。上司から引き合わされた新しい専属医。目からすべての意志を消した優秀なゲシュタルトを迎える事ができたと上司は手放しで喜んでいた。部分が部分である為には、常に心身の健康状態を一定に保たねばならない。ゲシュタルトの心身のケアをすべく本部に迎え入れられた専属医は、確かにその瞳には何も宿っていないかの様に見えた。
だが彼は気付いた。専属医の瞳の暗い底から何かが覗くのを。
それはふとした瞬間に感じるものだった。
身体検査後の着替えの部屋で。
食事室での談笑の隙間を。
懲罰後の向精神薬投与の時間に。
会合が終わり部屋を出る瞬間。
肩のあたりにチリチリと受ける小さな熱。
それは太陽光を集める虫眼鏡の様に、少しずつ彼の心を燻り出していった。
俺は何かに浸食されている
自分以外の何かに影響してはならない。自分以外の何かに影響されてもいけない。
そう教え込まれてきた彼には初めての感覚、初めての感情だった。
得体のしれない何かに覗かれている。彼の部分としての機能が綻び始める。小さく揺すぶられ顔を覗かせていく彼の中の、個。
──専属医…シミュラクラの特攻を担い三点の旗を打ち立てるべく送り込まれた彼は、狙いを定めたゲシュタルトの男の剥き出しの個に触れようとしていた。だがそれは思いの外熱く滾り、シミュラクラの心を乱した。
俺はどうしたらいい
シミュラクラにとって初めての戸惑いだった。任務に選ばれた名誉、万一失敗すれば自ら命を絶つ。シミュラクラ成立の為なら手段を厭わないつもりでゲシュタルト本部へ潜入した。そこで出逢った男。いよいよその男の寝所に入り込み、寝着に手を滑りこませる。部分を壊し、個に意志を。
なのに。
この熱さは、なんだ。
意志がこんなに熱いものだとは思わなかった。
シミュラクラは思わず手を引っ込めようとした
──その時。
「お前か」
ゲシュタルトがシミュラクラの手首を掴んだ。
「お前が、俺の歯車か」
その時二人は理解したのだ。互いが互いの運命の歯車であると。
二人の熱は、部分を溶かし三点を歪ませた。
出逢ってはいけなかった。出逢ってしまった。
もう止めることはできなかった。交わす熱は火傷しそうに熱く、二人を蕩けさせた。もう離れられない。離れては生きてゆけない。
この世界では。
「お前をもう手離すことはできない」
事後の気怠さに目を閉じるシミュラクラへ、ゲシュタルトは口付けを落とす。
鼻先を首筋に擦りつけてくるゲシュタルトに、シミュラクラはそっと微笑む。
「俺もだ。お前のいない世界は考えられない」
世界は二人を異質として認識しようとしていた。
異質は、排除されねばならない。
薄暗い朝靄の中を、二人はひたすら走っていた。
重苦しい湿った空気が絡みつく。
個に意志を宿してしまったゲシュタルトの身体は今や燃えるように熱い。逆に三点を歪ませてしまったシミュラクラの身体は冷え切り、特攻としての役割を終えようとしていた。
「ゲシュタルト、俺を捨てていけ」
「嫌だ」
「俺はもうお前と共に居る資格は無い」
「シミュラクラ、死ぬんじゃない。もう少しだ、もう少しで俺達の」
「いいんだゲシュタルト。俺はお前を裏切った。お前の個に火を付けたのは俺だ」
ゲシュタルト精鋭の足音が迫る。
もはや動けないシミュラクラの身体を抱き、ゲシュタルトは彼の頬を優しく撫ぜた。
「これが俺の運命だったんだ」
「ゲシュタルト」
「お前に出逢えて幸せだった」
「ゲシュタルト」
「愛してる、シミュラクラ」
「俺も愛してる、ゲシュタルト」
瞬間、ゲシュタルトの身体から炎が噴き出し、すべてを焼き尽くした。
ゲシュタルトの炎に包まれたシミュラクラの瞳からは、一筋の涙が零れた。
そうしてゲシュタルトは崩壊した。シミュラクラの成立の下、調和の世界が訪れた。
それが新しい支配の始まりであるとは誰も気付かない。
唯一人、シミュラクラ本人を除いては。
運命の男を手にかけたその罪と罰を背負って、歪んだ彼はすべてを支配する。
調和は保たれる。
新しい個が生まれ再び部分として全体を成すその時まで。
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