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 獣道を駆け上がる途中で、女は木の根に足をとられて転んだ。    若者はそんな女の手を無理に引いて、更に山の奥へと入り込もうとする。 「ちょっ、ちょっと、待っておくれよ。…少し、休ませて、」 「でも、逃げないと、」  若者の息も、女の息も上がっていた。  それでも若者は急かすように更に女の腕を引く。 「…ははっ」  女は現状がどんどん滑稽に思えてきたのか、肩を震わせ笑い始めた。  そして自身の腕を掴む若者の手をそっと剥いだ。 「アタシが逃げるのは道理だが、なんでお前さんまで逃げてるのさ。ここからは一人で逃げるよ。だからお前さんは山を下りな。」  息を整えつつもその場に座り込み、女は若者を笑いながら見上げた。  暗いだけの木々の隙間から微かに月明かりが漏れている。  若者の顔は、月明かりが逆光となり、影を濃くしてよく見えない。  女は乱れた髪を手ですいて、俯き加減にゆるく微笑む。 「まあ、面白かったけどね。いい思い出になったよ。ありがとう。…ほら、早く行きな。」  女は手の甲をひらひらと舞わせて若者を追いやろうとする。だが若者は何を思ったのか、すたすたと女の隣にやってきて座り込んだ。  驚きつつも女は声をたてて笑う。 「何なんだい。お前さん、アタシになんか用があるのか?」 「…僕は昔、今日みたいに命を捨てようとしたことがあるんです。」 「……っ」  若者の声は、夜の闇によく似ている。  女は、若者の言葉に一瞬息を飲んだが、すぐさま、「そうなのかい?」と事も無げに言った。  そして女は改めて大きく息を吐き捨てて、 「二度も助けられたんなら、やっぱりお前さんは逃げないと駄目だね。仏様に怒られるよ。」  慈しむように、山の闇に向けて女は微笑んだ。  若者はその女の横顔を、何も言わずにただじっと見つめた。      ※ ※ ※  10年前。  お密は絶望の淵を裸足でさ迷っていた。 「…庄吉さん、」  愛しい亭主はお人好しで、他人を疑うことを知らなかった。  だからこそ夫婦となったのだが、ある日、あらぬ嫌疑をかけられて、罪人となり、処刑場へと連行された。 「どうしてさ!あの人は何もしていないよ!お武家様を手にかけるなんて、そんなことができるはずがないじゃないか!」  処刑場へ、お密は裸足で駆けつけた。  泣きながらお役人にすがったが、無下に足蹴にされる始末。 「庄吉さん!庄吉さん!」  悲痛な声は、どこにも届かない。 「やめとくれ!やめとくれ!」  お密の声は風が無慈悲に消し去っていく。  押さえつけられた庄吉の首めがけて、白刃が振り上げられた。 「……あっ!」  その時の、処刑人の顔を今はっきりと思い出した。  とても若い、少年のような男。  黒目がちの目が、お密と合って、彼は確かに眉根を寄せた。泣きそうに、辛そうに。  その日は新月の夜だった。  絶望の淵を裸足でさ迷うお密は、あの少年と町外れの橋の袂で出会った。  お互い、顔など見えるはずもなかった。  それでもお密には、そこに立っているのが、あの処刑人の少年であることが確かにわかった。  憎む気持ちがないわけではなかったが、 「お止めなさい!」  お密はほとんど無意識に走り出していた。     少年が橋の欄干に足をかけて、今にも川へと身を投げようとしていたのだ。 「お止めよ!」    お密は少年を抱えるように欄干から橋の方へと引き寄せた。 「何やってんだ!馬鹿な真似を!」 「…うぅ、うぅ、」  少年はただグズグズと小さく泣いていた。 「…馬鹿な真似を、」  まるで童子のようだと目頭が熱くなる。  お密は少年を改めてその胸にしっかりと抱き寄せた。 「死んだら駄目だよ。アンタの生きる道に光が見えなくても、明日は来るから、ね、死んだら、駄目だ。」  お密は、震えながら声を殺して泣く少年の背中を擦り続けた。  そして、嗚咽が漏れそうな奥歯をぎゅっと噛み締める。  焼ける程熱い涙が頬を伝ったことは、今でも確かに覚えている。
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