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二
獣道を駆け上がる途中で、女は木の根に足をとられて転んだ。
若者はそんな女の手を無理に引いて、更に山の奥へと入り込もうとする。
「ちょっ、ちょっと、待っておくれよ。…少し、休ませて、」
「でも、逃げないと、」
若者の息も、女の息も上がっていた。
それでも若者は急かすように更に女の腕を引く。
「…ははっ」
女は現状がどんどん滑稽に思えてきたのか、肩を震わせ笑い始めた。
そして自身の腕を掴む若者の手をそっと剥いだ。
「アタシが逃げるのは道理だが、なんでお前さんまで逃げてるのさ。ここからは一人で逃げるよ。だからお前さんは山を下りな。」
息を整えつつもその場に座り込み、女は若者を笑いながら見上げた。
暗いだけの木々の隙間から微かに月明かりが漏れている。
若者の顔は、月明かりが逆光となり、影を濃くしてよく見えない。
女は乱れた髪を手ですいて、俯き加減にゆるく微笑む。
「まあ、面白かったけどね。いい思い出になったよ。ありがとう。…ほら、早く行きな。」
女は手の甲をひらひらと舞わせて若者を追いやろうとする。だが若者は何を思ったのか、すたすたと女の隣にやってきて座り込んだ。
驚きつつも女は声をたてて笑う。
「何なんだい。お前さん、アタシになんか用があるのか?」
「…僕は昔、今日みたいに命を捨てようとしたことがあるんです。」
「……っ」
若者の声は、夜の闇によく似ている。
女は、若者の言葉に一瞬息を飲んだが、すぐさま、「そうなのかい?」と事も無げに言った。
そして女は改めて大きく息を吐き捨てて、
「二度も助けられたんなら、やっぱりお前さんは逃げないと駄目だね。仏様に怒られるよ。」
慈しむように、山の闇に向けて女は微笑んだ。
若者はその女の横顔を、何も言わずにただじっと見つめた。
※ ※ ※
10年前。
お密は絶望の淵を裸足でさ迷っていた。
「…庄吉さん、」
愛しい亭主はお人好しで、他人を疑うことを知らなかった。
だからこそ夫婦となったのだが、ある日、あらぬ嫌疑をかけられて、罪人となり、処刑場へと連行された。
「どうしてさ!あの人は何もしていないよ!お武家様を手にかけるなんて、そんなことができるはずがないじゃないか!」
処刑場へ、お密は裸足で駆けつけた。
泣きながらお役人にすがったが、無下に足蹴にされる始末。
「庄吉さん!庄吉さん!」
悲痛な声は、どこにも届かない。
「やめとくれ!やめとくれ!」
お密の声は風が無慈悲に消し去っていく。
押さえつけられた庄吉の首めがけて、白刃が振り上げられた。
「……あっ!」
その時の、処刑人の顔を今はっきりと思い出した。
とても若い、少年のような男。
黒目がちの目が、お密と合って、彼は確かに眉根を寄せた。泣きそうに、辛そうに。
その日は新月の夜だった。
絶望の淵を裸足でさ迷うお密は、あの少年と町外れの橋の袂で出会った。
お互い、顔など見えるはずもなかった。
それでもお密には、そこに立っているのが、あの処刑人の少年であることが確かにわかった。
憎む気持ちがないわけではなかったが、
「お止めなさい!」
お密はほとんど無意識に走り出していた。
少年が橋の欄干に足をかけて、今にも川へと身を投げようとしていたのだ。
「お止めよ!」
お密は少年を抱えるように欄干から橋の方へと引き寄せた。
「何やってんだ!馬鹿な真似を!」
「…うぅ、うぅ、」
少年はただグズグズと小さく泣いていた。
「…馬鹿な真似を、」
まるで童子のようだと目頭が熱くなる。
お密は少年を改めてその胸にしっかりと抱き寄せた。
「死んだら駄目だよ。アンタの生きる道に光が見えなくても、明日は来るから、ね、死んだら、駄目だ。」
お密は、震えながら声を殺して泣く少年の背中を擦り続けた。
そして、嗚咽が漏れそうな奥歯をぎゅっと噛み締める。
焼ける程熱い涙が頬を伝ったことは、今でも確かに覚えている。
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