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三
「貴女は、どうして逃げておられるんですか?」
静けさの中で、不意に若者が聞いてきた。
女は動揺を隠しきれずに少し目を泳がせ、その顔から笑みを消し去る。
逃げている理由など、言いたくはなかった。
だが、若者の真っ直ぐな視線が横顔に刺さって、女はいたたまれず、諦めたような溜め息を吐いた。
「…旦那を、殺したのさ。」
「え、」
女は故意におどけたように笑いながら、しかし若者を見遣る勇気は持てずに、暗い闇を見つめたまま言葉を重ねた。
「酷い男でね。…アタシを見初めたからってさ、前の亭主を騙して罪人に仕立てて、殺したんだよ。…それなのに、」
女は闇の中で何度も指を組み直し、やがて固く拳を握る。拳は白く震えていた。
「…アタシも年を取る。若いままではいられないだろ。そうすればさ、アタシは用済みになったのさ。だから旦那は外に女を囲った。それならそれでもよかったんだ。やっと別れられると思った。けど、」
武家の男が、身分の卑しい妻から離縁状を突きつけられたとなると体裁が悪い。そのため、離縁を望む女の言葉を、旦那は耳に入れようともしなかった。
「そんな時に、アタシを心配した前の亭主の弟が時折訪ねてきてくれるようになってね。…ただ会って話をしていただけだったけど、周りはそうは見なかった。」
やがて噂は風に乗ることで暗い色を孕み、その噂を耳にした旦那は激昂した。
その夜、顔を怒りで赤らめた旦那が押し入ってきて、いきなり、女の義弟に斬りかかった。
しかし憤怒に任せて狭い長屋で刀を振り上げた結果、刀は梁に突き刺さり、旦那は身動きが取れなくなった。その隙に義弟は脱兎のごとく逃げ去り。残った女は、狼狽して刀を梁から抜こうと躍起になっている旦那の脇差しに手を伸ばした。
「お武家様にとって妻の不義密通ってのは、妻を斬って捨てても不問に伏されることが多い。…だけど、」
「…………」
「…まあ義弟が命からがら逃げおおせたのが、せめてもの救いだった。だから、あれでよかったんだよ。」
そして女は俯いたまま、気持ちを落ち着かせるために、何度も小さな息を吐く。
それを目の当たりにして若者は、深く頭を下げて女に詫びた。
「…すみません。くだらないことを聞きました。」
「ははっ、くだらなくはないだろうさ。…疑問に思って当然だよ。ここまで一緒に逃げてくれたわけだしさ。」
女はようやく笑って若者と向き合う。
だがその笑顔が、闇に飲まれんばかりの儚さを孕んでいるように伺えて、若者は胸に強い痛みを覚えた。眉をひそめる。
「…あの、」
「旦那とはいえお武家様を手にかけたんだ。アタシは死罪は免れない。お前さんも幇助を疑われる。だから、頼むよ。…早く逃げな。」
その女の声が明るくて、明るすぎて、よけいに若者は悲痛に顔を歪ませる。それでも女は口を閉じない。
「お前さんは若いんだ。…こんな醜女、気にかけるだけ時間の無駄だよ。」
若者の目に宿る情の名を慮って、女は執拗に強がった。
そして、
「早く逃げなっ!」
笑みを消し去り語尾を強く言い放つ。
そのまま女はすくりと立ち上がると、若者に一瞥もくれずにどんどん山の奥へと歩み行った。
「待てっ」
だが若者は直ぐさま立って女の後を追う。
「…一時の情で命を粗末にするのはもうお止めよ。…頼むから、ついてこないで。」
若者に背を向たままの女の声は、静かに震えていた。
「……」
だが若者は黙りを決め込んだまま、大股で女を追い越しながら女の腕を掴む。そして再び女を引っ張るように歩を進める。
「…もう放っておいておくれよ。…頼むよ。頼むから、…これ以上、生きたいと、生きていたいと、思わせないで。」
先を行く若者の背中にかけた女の言葉は、力弱く、おそらくこれが女の素の声なのだろうと若者は思う。
「すみません。」
だからただ一言だけ詫びる。そして若者は、闇の続く前だけを真っ直ぐ見据え、血が滲むほどに下唇を噛み締めた。
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