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 どこにそんな力が残っていたのだろうか。  山のあちらこちらから岡っ引きたちの気配が漂い始め、木々のざわめきに人の声が混じる。  すると、お密はゆっくりと立ち上がり、 「吉雅様、本当にありがとうございました。」  徐に深く、頭を下げた。 「…え、お密さん…?」  その姿は、疲弊し乱れた身形からは想像できないほど、凛としていた。 「…え、」  だからこそ虚をつかれ、吉雅は狼狽える。 「…いや、お密さん、待て、…待て、」  そんな吉雅の虚ろな制止も虚しく、お密は薄く微笑み、そのまま吉雅に背を向けた。  そして地面に足が着いていないようにゆらゆらと、木々の間に消えていく。 「お密さんっ!」  吉雅は慌てて立ち上がり、あたりを何度も見回した。だが、既にお密の姿を見つけることはできなくなっていた。 (こんなことって、こんなことって、)  吉雅は吐き気に近い焦燥感に駆られて唇を戦慄かせた。その時だった。 「いたぞ!こっちだ!」  刹那見知らぬ男たちの怒号が轟き、近くで駆ける複数の足音が鳴り響く。  泣きそうな顔のまま吉雅は急いで音のする方へと転がるように駆け出した。  だが、 「…そ、そんなっ、」  吉雅は絶望の中で言葉を失った。  明るい提灯の灯りが人魂のように辺りを漂う。  その中でお密は、何本もの黒い腕に捕らえられて、地面に無下に押さえつけられていた。 (お密さんっ)  助けようと吉雅が一歩前に出た瞬間に、 「…!」  確かにお密と目が合った。 「…お密さん、」 《来ないで。生きて。》  お密の穏やかに微笑む赤い唇が、音もなく、そう告げる。 「……っ」  顔をひきつらせて吉雅は、震える足でよろよろと数步下がった。そのまま踵を返すと、逃げるように、提灯の灯りに背を向けて走り出した。 「はあ、はあ、はあ、」  木々を避けることもできず、枝や草に肌を切られ、あちらこちらから鮮血が垂れる。  それでも真っ暗なだけの闇を無心で駆けた。 「はあ、はあ、はあ、…うわっ」  やがて足が縺れて、吉雅は斜面を転がり落ちた。  岩や草木に身体をしこたま打ち付けながら滑り、やがて川縁付近で動けなくなった。 「………はあ、はあ、」  呼吸が落ち着く頃になると、苔むす臭いが鼻につく。その青臭さに顔を歪めて、吉雅は身体を反転させた。  しばらく仰向けのまま、微かな月明かりを見上げていた。 「………」  ここはとても静かだ。  すぐ傍で、捕り物が行われているなど、想像さえもできないほどに。 「………うぅ、うぅぅ、」  吉雅は自身の腕で目を押さえ、獣のように低く呻いた。  東の空が白く染まり始める。  無情な夜はこうして呆気なく明けていった。      ※ ※ ※  どうやって屋敷に戻ったのかさえ、覚えていない。    昼過ぎ、泥にまみれた吉雅が屋敷に戻ると、門前で屋敷から出る腰物奉行の山村とすれ違った。  吉雅は屋敷に入ることなく、深く頭を下げて山村を送る。山村は身形の汚れた吉雅に一瞥くれることもなく数名の配下を引き連れ去っていった。  山村の姿が見えなくなり、ようやく吉雅は頭をあげ、屋敷の門を潜る。  しかしすぐには屋敷の室内に入らず、裏手の井戸に真っ直ぐ向かった。  冷たい水を桶に注ぎ、手拭いを浸して固く絞る。  身体に纏わりつく泥を手拭いでぬぐっていると、背後に人の気配を感じて振り返った。 「……、」  そこには、大柄の当主が、腕を組み、仁王立ちしたまま吉雅を見下ろしていた。  その当主の目は、吉雅がここへ養子として引き取られた時から変わらない。蔑み、まるで蛆でも見るかのごとくの冷たい眼差し。  吉雅はゆっくりと目を反らし、再び桶の水に手拭いを浸す。 「吉雅、昨夜はどこへ行っておったのだ。」  当主の、腹に響く低い声。  即座に「特には」と、吉雅は言葉短に答える。 「まあよい。先程、山村様より拝命賜った。試し切りを命ずる。三ツ胴は固いとおっしゃっておいでだ。やれるな。」 「…はい。」  吉雅の返答は小さく、だが当主は気に止めることもない。当主は言伝て終えると大きな歩幅でその場から早々に立ち去った。  一人残った吉雅は、感情の一切をかなぐり捨てて表情を殺す。  ただ、手拭いを何度も水に浸しては、己の手に染み付く不浄を清めようと、執拗にぬぐい続けた。  
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