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私が、自然に笑っていた頃の記憶①
200℃のオーブンで熱せられた生地から溶け出すバターの香り。
これは私の一番好きな時間。
あ、オーブンの加熱時間が残り1分を切った。
55秒、54秒・・
コーヒーマシンに水をセットしてボタンを押すのは私の役目で、お父さんのマグカップにはコーヒーを私のカップにはカフェオレを入れる。そしてすっかりお腹が大きくなって来月に出産を控えたお母さんにはオレンジジュースを。
ありがとうマドカ、と微笑みジュースを受け取るお母さんはその日もとても綺麗だった。
「どういたしまして。ハル君もオレンジジュース好きかな?」
きっと好きよ、そう言ってお母さんは張り出したお腹を撫でる。ハル君というのは3人で決めた赤ちゃんの名前で正しくは陽斗。
ピーッと加熱終了を知らせるブザーが鳴り、お父さんがオーブンを開けるといっそうバターの香りがリビングいっぱいに広がった。
『ちょっと久しぶりだったから成形がいまひとつだったよ。』
いつも照れながら焼きあがったパンを運んでくるお父さん。自作のパンに100点満点をつけることはまずないんだけど、どのパンも満点だと私は思う。
『そんなことないわ。あなたのパンはいつだって最高よ。』
お母さんがちょっとだけ形の悪い表面の破れたパンを一つ手に取り、私もちょっと形が崩れたものを取った。
『いいのか?マドカ。もっとキレイに焼けたの食べてもいいんだぞ。』
形なんてちょっと悪いくらいがいいの、いい感じにバターが溶け出してるから。そう呟いて私はパンを頬張る。
「美味しい。幸せ。」
舌に触れるざらりとした岩塩に、甘く香ばしいバターが染み込んだ生地。この日もザルツシュタンゲン(塩パン)は最高に美味しかった。
そして、私がいつも決まって言うセリフ。
「やっぱり、お父さんとはサヨナラできてもお父さんの作るパンとは別れられない!」
そう、この時の私ははまさか数年後に本当にお父さんとサヨナラするなんて夢にも思わなかった。
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